日本の学生運動(にほんのがくせいうんどう)では、日本国内で行われた学生運動について扱う。

東京教育大学の無期限スト(1968年)

概要編集

日本の学生運動は、大正デモクラシーの時期に始まったが、この項目で触れるのは、戦後になって盛んになったものである。

運動の中心となるのは活動家と呼ばれる学生であり、彼らは学生全体からみれば少数であるのが常である。活動家の多くは政治党派の学生組織に属しているか、その共鳴者(シンパ)が多いが、政治党派とは距離を置き運動を担っている学生も存在する(ノンセクト・ラジカル)。

運動内容は時代や個別学校によって様々なものがあるが、代表的なものとして、反戦運動、学費値上げ反対運動、学生会館の自治要求などがある。日常的に彼ら活動家は、自治会や様々なサークル(社研など)を拠点にして討論や学習をし、自前のビラ(アジビラ)やポスター、立て看板(タテカン)を作製し、授業前のクラスや昼休みの広場などで演説をし、自らの主張をアピールする。時には校内で集会や講演会、学習会などのイベントを開く。運動は日常的には地道なものであり、地味なものである。しかし運動がまれに盛り上がるときもある。普段は大学問題や政治問題に関心のない一般の学生も運動に加わり、全学的に運動が高揚する場合である。そうなればデモや授業ボイコット(ストライキ)、大衆団交、果てはバリケードによる建物占拠などが行われる。

日本で学生運動が最も盛り上がりを見せたのは、1960年の安保闘争、1968年 - 1970年の全共闘運動大学紛争の時期であったが、それ以降は下火となっている。原因としては、社会が豊かになったことでの政治離れ、内ゲバなど過激な運動への忌避などがあげられ、さらに社会主義国の実態認知、多数派学生からの学生運動家への嫌悪などにより、衰退に向かった[1]

歴史編集

学生運動の始まり編集

 
軍事教練に反対し警官とにらみ合う早大生(1923年)

日本では、明治時代から旧制高校などで校長排斥運動や同盟休校が度々起きていた。

第一次世界大戦直後、大正デモクラシーの影響を受け1918年12月東京帝国大学新人会、同年京都帝国大学労学会(同じ頃に野坂参三らがつくった東京の労学会とは別)、翌1919年2月21日早稲田大学民人同盟会がそれぞれ設立された。その後これらの団体は普選運動に参加し、1919年1月学生による運動が起こったが、翌1920年5月10日第14回衆議院議員総選挙戦後不況により衰退した。

その後学生たちは労働運動農民運動など学外の社会運動との連携を強め、1922年11月7日には学連を設立、この頃から次第にマルクス主義社会主義の影響が拡大し、1920年代には軍事教練反対運動1923年5月10日早大軍事研究団事件1924年11月12日全国学生軍事教育反対同盟結成→11月〜1月社研解散命令および様々な軍教反対運動→1925年1月10日軍事教育案可決→1925年10月15日小樽高商軍事教練事件→10月三高進化会解散→12月1日京都学連事件)、自由擁護運動・学生自治運動(1926年5月29日文相内訓五ヶ条→1926年6月28日全日本学生自由擁護同盟結成→1928年6月学生自治協議会と学生運動に関する出来事が繰り返された。しかしこの頃の学生運動では福本イズム[※ 1]の流行など理論闘争を重視し日常闘争は軽視されていたが1926年 - 1931年にかけて左翼だけでなく広汎な一般学生らによっての学校騒動慢性化時代でもあった)などの運動が取り組まれた。

全学連の結成から安保闘争へ編集

 
血のメーデー事件(1952年)

第二次世界大戦中は完全に解体されていた学生運動は戦後すぐに復活した。多くの大学で大学民主化運動が行われ、その高揚を背景に1948年全日本学生自治会総連合(全学連)が結成された。全学連は当初は日本共産党の影響が強く、その活動方針と軌を一にしていた。しかし、1955年日本共産党第6回全国協議会(「六全協」)で、共産党が現場の運動家を半ば置き去りにする形で大幅な路線変更を行ったことを契機として徐々に距離を置くようになり、共産党から除名された学生達が中心となった新左翼共産主義者同盟(ブント)が、全学連を握った。

国民的な議論となった1960年の日米安全保障条約改定をめぐる反対運動(安保闘争/安保紛争)では、この全学連(安保全学連ブント全学連)が運動の中心を担った。この闘争の最中、東京大学文学部の学生だった樺美智子(かんばみちこ)が機動隊とのもみ合いの最中に死亡し、象徴的事件となった。

安保闘争後、ブントは四分五裂、全学連も分裂し、学生運動も下火となる。

全共闘と全国学園闘争編集

 
佐藤訪米阻止闘争(1967年)
 
神田カルチェ・ラタン闘争(1968年、奥の建物は明大記念館
 
全共闘ゲバヘル

1960年代半ばになるとベトナム戦争反対などの運動を通して、再び学生運動が盛んになってきた。早稲田大学や慶應義塾大学などで学園紛争が起り始める(第一次早大闘争)。また新たに結成された三派全学連は、羽田闘争を皮切りに街頭で数々の武装闘争を繰り広げた。その戦いに多くの学生が参加し、ヘルメットにゲバルト棒というスタイルが学生運動の定番になっていく。

三派全学連は再び統一されたブント(第二次ブント)、そのブントをしのぐ勢力を誇る中核派などがヘゲモニーを握っていた。これら新左翼三派や革マル派など5流13派と呼ばれる新左翼党派が、様々な色のヘルメットをかぶって自派を特徴づけ、学生運動での勢力を競い合った。新左翼系の学生達と日共系の学生達、そして新左翼同士でも暴力的な対立があったものの、街頭で各学園で学生運動は高揚していく。それはこの時期、世界的な現象として現れたスチューデント・パワーに呼応していた。

1968年(昭和43年)頃から東大闘争全学共闘会議(全共闘)と呼ばれる運動形態が現れた。全共闘は、それまでの全学連のような特定の政治党派の影響が強い既存の学生自治会に拠る運動とは異なり、党派や学部を越えたものとして組織作られ、ノンセクト・ラジカルと呼ばれる党派に属さない学生が数多く運動に参加した。彼らは武装を辞さず、大学をバリケード封鎖することによって主張の貫徹を試みた。東京大学で始まった全共闘運動は1969年(昭和44年)には燎原(りょうげん)の火のごとく全国に広がり、国公立大学私立大学の大半が、何らかの闘争状態・紛争状態となった。

街頭闘争でも1968年、1969年の国際反戦デーでは全国で投石や火炎瓶などによる闘争が繰り広げられ、さながら市街戦状態になった。また三里塚や沖縄デー(サンフランシスコ平和条約が発効し、法規的に沖縄が日本の施政権から外された4月28日を指す)などでも、学生達は激しく機動隊とぶつかり合った。

日大闘争中の出来事として1968年10月、日本大学経済学部本館のバリケード封鎖解除に出動した機動隊員が校舎の4階から落とされた重さ約16kgのコンクリートの塊が頭に直撃し殺害される事件が発生した。大学進学率が10%台である当時において大学生はエリートであり、また日大闘争の発端は大学当局の腐敗によることは警察関係者も認めるところであったため、警察も彼らの未来を潰さないよう出来る限り穏便に事件を解決しようとしていた。しかし、警察は死亡者が出た事で方針を転換、少人数の集会でも数倍の人数で一気に征圧するなど、強硬手段を執るようになる(ちなみに、関与した容疑者は何人かいたが、全員が「その場にいた証拠がない」として無罪となり、現在も真相は明らかになっていない)。

さらにそのわずか半年後の1969年4月12日にも岡山大学で機動隊員の巡査が学生による投石を頭部に受け同日夜に死亡する事件が起こった。これは岡山大学の学生による学生課長及び教養部教官に対する集団暴行傷害事件について大学長が学生十数名を告発したことに伴う岡山県警強制捜査の際に起きた事件で、学生約150人は警察官に激しい投石を行い執行を妨害。殺害された巡査以外にも警察官多数が負傷した[2]

こうした学生運動は、一部の浪人生や高校生などにも波及し、ピーク時には35都道府県176校に及び、とくに大阪府立市岡高等学校大阪府立大手前高等学校東京都立九段高等学校東京都立青山高等学校神奈川県立川崎高等学校神奈川県立希望ヶ丘高等学校東京都立立川高等学校静岡県立掛川西高等学校北海道札幌南高等学校東京都立日比谷高等学校といった旧制中学以来の伝統を有する各地の進学校、国立大学教育学部附属高校で多発した。また私立も灘高等学校麻布高等学校でも発生し、学園紛争が起きる高校は進学校の証しとさえいわれるようになった。 大阪では大阪府高連を中心に高校生によるキャンパスのバリケード封鎖が行われている。運動は、生徒会などを取り巻く環境の改革運動、服装自由化運動や制服廃止運動、教育課程や教育方法の改善運動を派生させたこともあった。浪人生においても、東京や大阪のような大都市では活発な運動が展開され、全国浪人共闘会議(浪共闘)が結成された。セクトとしては中核派系の反戦高協が最大であった。

なお、1969年にこれらの学生運動に対抗する形で、民族派系の生長の家学生会全国総連合(生学連)、全国学生自治体連絡協議会(全国学協)、日本学生同盟(日学同)、日本学生会議(ジャスコ)、反憲法学生委員会全国連合(反憲学連)、全日本学生文化会議や、創価学会系の新学生同盟(新学同)などの、左翼系でない(≒右翼)学生団体もこの頃出現した。

政府は大学紛争に対応するため、1969年に大学の運営に関する臨時措置法を制定し、大学に教育研究活動の停止を含めた対応措置を認め、さらに紛争が長期化する場合は政府が大学組織の改廃を可能とする内容を盛り込んだ。

マイノリティ解放運動編集

かねてから貧困に苦しむ人々に対する学生によるセツルメント運動学生セツルメント)が存在した。関東大震災の救援活動を契機に設立された東京帝国大学セツルメントが嚆矢。以来、現在まで学生によるセツルメント運動は続いている。

1960年代から障害者解放闘争が活発となっていく。障害者団体全国青い芝の会の運動に学生が参加したり、安保闘争に障害者が参加する動きがあった[3][4]。後に在宅障害者の保障を考える会(在障会)を結成することになる新田勲三井絹子らが中心となって闘った1972年の府中療育センター闘争でも学生たちがこれに参加したり、障害者の介助を行ったりした。他、幾つかの新左翼党派はS闘争に取り組み、この運動が契機となり全国「精神病」者集団の結成につながった。

1967年の第一次羽田闘争に参加した沖縄出身者の学生が処分されたことから「与那覇君を守る会」が関西でおこり、やがて沖縄学生闘争委員会準備会(沖闘委)が誕生した。沖闘委は沖縄青年委員会に発展するが、中核派系と海邦派系に分裂し、ノンセクト・ラジカルで沖縄自立派の海邦派は1971年に沖縄青年同盟を結成する[5]。1971年10月、沖縄青年同盟のメンバーは沖縄の日本復帰への拒否を訴え、東京の国会で爆竹を鳴らした「沖縄国会爆竹事件」を起こす[6]

1919年3月1日、日本統治下の朝鮮ソウル市で起こった三・一運動は、1918年に東京の留日朝鮮人学生達がYMCA会館に結集し、「独立宣言書」を採択した(二・八宣言)ことが伏線になったという。戦後の日本でも1969年〜71年までの反入管運動では在日韓国青年運動が積極的な運動を行った[7]

1970年の華僑青年闘争委員会による「華青闘告発」に新左翼各派はこれに強い衝撃を受け、今に至るまで強い影響を与えた。

竹中労平岡正明太田竜らは、窮民革命論を唱えた。アイヌ解放同盟船本洲治の活動や映画「山谷─やられたらやりかえせ」が著名である。寄せ場日雇い労働者と学生による連帯の動きもあった。

警察の機動隊が代表するような「国家が行使する軍事的暴力」に対抗すべく学生たちもゲバルトを行い、武装化していく。この武装化の現象を「軍事的男性性」と呼ぶ。運動内では肉体的に女性より能力が高い男性が優遇され、運動内での「身体パフォーマンスの極度な重視、女性を性的対象と見なす文化」(女性差別)が強まっていき、旧社会の家父長制が運動内で克服されるに至らなかった。ゲバルトなど運動の目立つ部分は男性が行い、女性は家事やガリ版の印刷等、その補助に回る文化が残った。当時を振り返って「既成の秩序や考え方にあらがう同志でさえも、男に仕える「カノジョか飯炊き」の役回りを求めていた。」と語る者もいる。1970年に田中美津は「便所からの解放」というビラを作成して、これを告発した。田中らは同年「ぐるーぷ闘う女」を結成。やがて場としての「リブ新宿センター」を設立して1970年代以降のフェミニズム運動ウーマン・リブのけん引役となっていく[8][9][10]

1984年設立の「IGA日本」にLGBT当事者の学生や浪人生も関わっていたという記録が残る[11]

「民族派」の学生運動編集

戦後日本の大学では、1945年(昭和20年)8月の日本敗戦とその後の米軍による7年間にわたる占領政策の影響、そして世界的な共産主義思想の流行によって、左翼運動の独壇場ともいえる情況が現出した。 しかし、これら左翼学生運動の勃興に対する危機感から、「民族派」と呼ばれる右翼学生組織も次々と結成された。これら民族派学生組織の多くは、左翼による大学のバリケード封鎖に反対する「学園正常化」を掲げ、また、日本敗戦後の米軍による「日本弱体化」政策(ポツダム支配)と、米ソによる世界分割支配「ヤルタ体制」を厳しく批判して運動している(2つをまとめて「YP体制」と蔑称する)。 主な民族派学生組織には、全国学協日学同生学連日本学生会議民社学同反憲学連全日本学生文化会議等がある。

「内ゲバ」と暴力の激化、衰退編集

1970年頃までは、このような学生運動に共感を持つ人々も存在していた。この背景には「学生は世の中をよくするために身を挺して立ち上がっている」という意識や、学生運動を「若者のエネルギーの発露」としてそれを許容する空気が広く存在したことが挙げられる。権力側も一部には学生運動をする学生たちを「左翼の国士」と見るような風潮もあった。しかし、内ゲバや武装のエスカレートなどで市民の支持は徐々に失われていく。1960年代の新左翼党派の再編過程、路線対立の過程で暴力的衝突は日常と化していた。

分派が生まれ、党派闘争が発生し、1970年以降は殺し合いに発展していく。1971年法政大学での中核派による海老原事件と、それに対する革マル派の報復から、両派は凄惨な内ゲバを繰り広げ、ここに革労協と革マル派の間での内ゲバも加わり、1970年代は全国の大学で暴力の恐怖が蔓延した。

これら内ゲバや、赤軍派に代表される爆弾や銃による武装はエスカレート。そして1972年には連合赤軍による12名のリンチ殺人事件(山岳ベース事件)が発覚した。こうして学生運動は急速にその支持を失っていった。左翼学生運動同様「民族派」学生運動も次第に衰退していった。

1980年代以降は学生運動が存在するのは、ごく一部の大学のみとなり、それもごく一部の党派に属する学生に限られた運動となっている場合がほとんどで、大部分の学生とは無縁の存在になっている。

その後の学生運動編集

成田闘争編集

大学での運動が衰退した後、中核派や第四インターなど一部のセクトは成田空港に反対する成田闘争国鉄民営化阻止運動へ流れ込んだ。

管理教育への反対運動編集

主に70年代~90年代、日本各地の中学、高校で管理教育が行われていた。生徒、学生、若者などによるこれに対抗する運動としては保坂展人らがミニコミ誌学校解放新聞を発行したり、学校開放新聞の編集場兼フリースペースとして青生舎が東京都世田谷区で1976年に開かれた事例がある。大阪では全逓信労働組合の事務所が開放されて不登校の若者の居場所として活用されたり、横浜では赤田圭亮らが開いた「管理教育から学校を解放する自立センター」があった。学校開放新聞には西原理恵子がイラストを寄せたり、後に全国不登校新聞社に関わる伊藤書佳が編集に携わった[12]

他に愛知県立東浦高校での経験を高校生時代に「熱中高校?って、なんだ 〜愛知・東郷高校で何が行われているか」として発表した内藤朝雄[13]や福岡の「反管理教育中高生ネットワーク・DPクラブ」の外山恒一らの運動が知られている。後に外山はリベラルの管理社会に対する反感からファシストに転向した[14]

フリースクールの運動としては、1985年には奥地圭子より東京シューレが東京都北区で開始され、今でも活動を続けている。

早稲田大生が始めた脱資本主義を掲げたオルタナティブ運動としてのだめ連、「ゆるいアナキズム」を提唱した栗原康など街頭闘争より、個人の生活スタイルの変化に重視を置く運動も起こっている。

2000年代編集

 
革マル派全学連によるデモ行進の様子(2009年)
 
早稲田大学の立て看板(2018年)

2001年には東京大学駒場寮が、2004年には法政大学学生会館が、2006年には東北大学有朋寮など学生自治の空間自治寮など)が次々と閉鎖し、学生運動の拠点が失われていった。2006年から2009年には法政大学学生運動の一斉検挙により学生110人以上が逮捕された。

産経新聞の「さらば革命的世代」では、なぜ急速に運動に対する熱が冷めたのか、また学生運動の功罪などについての問いに対し、かつての学生で運動に参加していた団塊の世代が、口をつぐんでいるがために総括されていないと指摘している。

2008年に起きたリーマンショックでは、派遣切り内定切りに対するデモや就職活動抗議デモなど一部で若年層が組織的に参加する動きが見られた。

2010年代編集

2011年以降の脱原発デモ、2013年の特定秘密保護法反対デモ、2014年以降の集団的自衛権行使容認並びに安保関連法案反対デモなど無党派層を巻き込んだ新形態の学生運動が盛んに行われた。2013年には特定秘密保護法に反対する学生有志の会(SASPL)、2015年にはその後継団体として自由と民主主義のための学生緊急行動(SEALDs)が結成された。SEALDsは市民連合に参加して野党共闘を求めたり、内部に日本共産党系団体の関係者がいるなど、党派色も見られた[15][16][17]

2011年4月にはLGBT当事者らが中心となり、早稲田大学公認学生団体のRe:Bit(後に認定NPO法人化)を立ち上げた。他大学でも類似する学生団体の設立が相次いだ。

2012年に中核派は京都大学同学会を「再建」したと称し、2015年には京大構内の建物の一部を占拠するバリケード・ストライキを決行した。2017年には前進チャンネルをYouTube上で開始する等、SNSを重視した運動も始めている。

ノンセクト・ラジカル系は2010年~2013年ごろに反就活デモを実施したり、安保関連法案に反対して国会前で「学生ハンスト」を実行したり、学生や活動家が交流するための「オルタナティブスペース」を各地で運営するなど、旧来型の学生運動の中にも一部ではあるものの活動を活発化させているものが存在する[18]

2017年には、京都大学当局京都大学吉田寮から寮生追い出しを予告し、吉田寮自治会はこれに抗議する運動を行っている。

2019年には、複数の大学に通う学生が「ミスコン&ミスターコンを考える会」を発足させた。学園祭におけるミスコンミスターコンの開催が「容姿差別(ルッキズム)を助長する」「男らしさ女らしさに基づいて画一的な美しさを押しつけている」「大学にふさわしくない」と訴えている。立て看やビラまき等も行っている[19][20]

学生運動の新しい形として一時期マスメディアより注目を集めた2010年代の運動であったが、当時の若年層の間では自民党の支持が多世代以上に高い状況となり、支持を得ているとは言い難い結果に終わった[21]。また、デモ参加者にシニア層が多く含まれていたことが指摘されている[22]

2020年代編集

2020年代に入っても一部で「反管理教育運動」は続き、高校生グループ「日本自治委員会」(機関紙:校民日報)が都内を中心に活動している[23]

2020年コロナ禍において、大学の対面授業の中止、キャンパスへの立ち入りの制限、学生のバイト先の減少による経済的な困窮等を理由に学費返還運動が早稲田大学、慶應義塾大学などで起こる[24]

2021年には、入管法の改正案に反対し、日本へ難民を受け入れようという運動が盛んになった。学生も多く参加している[25]

年表編集

1910年代編集

1918年
1919年

1920年代編集

 
1925年メーデーにおける学生デモ隊。幟の文字列は「治安維持法撤廃」。
1920年
1922年
1923年
1924年
  • 11月12日 - 全国学生軍事教練反対同盟結成
  • 12月4日 - 早大・日大などの女子聴講生により女子学生連盟結成(翌年全国女子学生連盟に発展)
1925年
1926年
  • 6月28日 - 全日本学生自由擁護同盟結成
1927年
1928年
1929年

1930年代編集

1930年
  • 10月 - 早慶野球戦切符事件起こる(早稲田大学)。
  • 11月 - 授業料・学生自治問題同盟休校事件起こる(明治大学)。
1931年
1932年
  • 10月 - 授業料・教育条件問題同盟休校事件起こる(明治大学)。
1933年
1937年

1940年代編集

1943年
1945年
 
上野高等女学校での同盟休校
 
早稲田大学学生大会(1946年12月)
1946年
  • 3月12日 - 関東関西学生政治協議会が開かれる
1947年
  • 1月31日 - 2.1ストを前に、関東連合学生大会を皇居前広場で開く(学園民主化、学校復興をスローガンに40校3万人が参加)
  • 12月14日 - 文部省が4国立大(文理千葉医)の地方移譲をほのめかす。23日、地方移譲に反対し、4大学学生対策実行委できる。学生側は“関東総合大学”案を提示
1948年
  • 4月28日 - 国学連、授業料値上げ(600円→1800円)反対、不払いを決議
  • 6月26日 - 大学理事会案・授業料値上げに反対して114校20万人がゼネスト
  • 9月18日 - 全学連結成大会開く(〜20日、東京)
1949年

1950年代編集

 
北海道大学でのイールズ講演反対集会(1950年)
 
1953年メーデーの全学連デモ隊
 
砂川闘争における測量阻止闘争(1956年10月)
 
安保闘争(1960年6月)
 
中央大学校庭で集会を開く全学連の学生たち
 
京都大学の立て看板
 
立て看板騒動が起きた東洋大学
1950年
1951年
1952年
1953年
1954年
  • 6月1日 - 東京地裁が、東大ポポロ事件被告に無罪判決[35]
1955年
  • 9月13日 - 砂川基地の強制測量開始で労組・学生と警官が衝突
1956年
  • 3月26日 - 教育3法反対などで学生総決起、全国120校25万人が参加
  • 6月9日 - 全学連第9回大会
1957年
  • 5月17日 - 全学連は、原子戦争準備反対学生総決起デーを指令し、全国で160校、35万人が参加[35]
1958年
1959年

1960年代編集

1962年
1965年
1967年
1968年
1969年

1970年代以降編集

1970年
1971年
1972年
1976年
  • 11月2日 - F君事件発生(立命館大学)
1980年
  • 4月20日 - 清水谷公園で全国学生共同闘争による「筑波大闘争支援/全国学生集会」が開かれ、55大学1000人が結集、革マル以外の全党派が集まった。
1985年
2006年
2011年
参加者約120人。
2015年
2018年
2019年
  • 1月18日 - 東洋大学の一学生が同大学のキャンパス内で政治的主張の立て看板を掲げ、ビラをまいた。それに対して大学はただちに抗議活動を中止させた。実行者の学生は大学から退学勧告を受けたと主張している[44]
2020年
  • 2020年春 - コロナ禍において、大学の対面授業の中止、キャンパスへの立ち入りの制限、学生のバイト先の減少による経済的な困窮等を理由に学費返還運動が早稲田大学、慶應義塾大学などで起こる[24]
  • 4月 - 入学金納入時期延長を求める学生有志の会が「入学金の支払期限を3月末にする」こと、国に対しては「入学しない大学には、入学金を払わなくてもいいようにしてほしい」と訴えて、ネットで署名活動を行った。4月27日には文科省で記者会見を行う[45]

状況編集

愛知大学編集

愛知大学豊橋校舎の学生自治会では、長年にわたり、執行部である常任委員会のポストを革マル派が排他的に独占し、学生自治会の実権を掌握している。民主青年同盟や体育会系極右と激しく対立している。また、東海地方には中核派の勢力が少ないため、内ゲバ事件などがまったくと言っていいほどない。

青山学院大学編集

1960年代に食堂の料金などをめぐって、大学当局と学生側がしばしば対立するようになる。1968年に始まった青学大全共闘による学生闘争はブント共産主義者同盟)を中心として行われた。大学の管理機構が集中していた8号館、9号館を学生側が制圧した。これが翌年まで続き、長期化を恐れた大学当局側は学生側の要求を飲んで沈静化が図られた。しかし、大学立法反対運動の全国的な高まりを受けて、再び1969年5月6月と相次いで学生側によって全学バリケード封鎖が実施され、1969年8月には教授会などが反対する中で大木金次郎院長を中心とする理事会の判断によって機動隊導入が強行され、バリケード解除が実施された。当該事件以降、理事会の影響力が教授会を上回る形の力関係が続いている。解体後ブントの分派である叛旗派などが新聞編集委員会や文化団体連合などに勢力を維持していたが、1980年代に入ると新聞編集委員会の実質的な解体や文化団体連合などへの弾圧も相まって急速にその力を失った。

大阪大学編集

1990年代まで豊中に中核派が存在。

大阪市立大学編集

1990年代は中核派の拠点校として、バリケードストライキを頻発させていた。旧志全寮自治会は中核派が握っていた。また専門課程キャンパスには、民学同がいたが壊滅。

大阪外国語大学編集

1969年の全学バリケード封鎖期の同大の全共闘の主要三派は、アナ革連、第四インター、毛沢東派。

大阪経済大学編集

2005年まで革マル派が自治会を掌握していたものの、大学職員への暴行事件をきっかけとして自治会の公認を取り消し。

大阪芸術大学編集

1960年後半はアナキスト革命連合(ARF)の拠点。1969年、アナ革連の大学解体闘争で実力部隊の中枢が全員逮捕。

岡山大学編集

  • 1969年 - 全学バリケード封鎖。9月、機動隊800人が導入される。
  • 1973年 - 前年、造反教官・坂本守信が免職され、学生は坂本免職処分撤回を要求し教養部をバリケード封鎖。200人以上の機動隊が導入される。
  • 1975年5月25日 - マルクス主義青年同盟による岡大寮生殺害事件が起きる。
  • 1995年 - 中核派が影響力をもっていた学友会が消滅。大学当局主導で校友会が結成される。

神奈川大学編集

全学自治会を解放派が握る。1970年代後半、学費値上げ阻止闘争の大衆団交で「学生運動初、値上げ決定後に白紙撤回」を勝ちとった。しかし、1981年の分裂により学内多数派が滝口弘人らのグループにつくことで弱体化し、1996年に内ゲバ殺人事件に絡む機動隊の強制突入により全学自治会は潰される。二部の自治会はノンセクト系。

関西大学編集

革労協の拠点校。1990年代、革労協のボックスが撤去。

1974年が始まってすぐに、学費の値上げおよび順次引き上げが採用され、これを不服として同年1月16日に「学費値上げ阻止、11.17公示撤回」共闘会議が結成された。2月21日に実力行使に移行し、本館、理学館、図書館、体育館を占拠した。3月6日には封鎖を解除した。4月1日には学費が増額された。1975年には一部の学生が本館および理学館を占拠したが、2月4日から6日までの2日間でしかなく、ICUにおける学生運動の終焉を感じさせるものであった。

九州大学編集

1968年6月2日の九州大学電算センターファントム墜落事故を契機に学生運動が激化。1969年5月20日からは全学的に無期限スト、バリケード封鎖が行われ、10月14日には機動隊により封鎖が解除される事態となった。

京都大学編集

全学の学生自治会として同学会があり、その他、各学部自治会、寮自治会がある(学部自治会がない学部もある)。60年安保闘争時は共産主義者同盟ブント)が同学会を掌握。1965 - 1972年は民青が同学会のヘゲモニーを奪い、京大闘争はブント中核派解放派など新左翼各派のほか、京大パルチザンなどと呼ばれたノンセクトグループが担う。72年、赤ヘル系セクトとノンセクト連合軍が同学会を民青から奪還。以後、主に教養、法、理、教育の自治会を民青が、文、経、農、医と熊野寮、吉田寮の自治会を赤ヘル系ノンセクトが維持。工学部は1976年に自治会崩壊。教養の自治会を赤ヘルノンセクト側は、同学会を民青は、それぞれ「でっち上げ」などと批判していた。この間、赤ヘル系ノンセクトは、ゲバ棒、鉄パイプ、チェーン、千枚通しなどを使って、苛烈な暴力、人権侵害を行使し、75年度には新学期から三ヵ月のあいだに20件の暴力事件を起こし、百数十人の重軽傷者を出した。

経済学部自治会は、1980年代ニューアカブームを牽引した浅田彰や、東京芸大毛利嘉孝らを輩出。しかし浅田彰は、現在ではしんぶん赤旗にも登場している。また、特に1977年まで続いた竹本処分粉砕闘争で同学会は、最大動員1000人という、新左翼斜陽の時代としては異例の組織力を誇り、週刊誌に「人民の海に浮かぶガラパゴス」と呼ばれた。

1971年に12人の仲間をリンチ殺人して山中に埋め、人質をとって山荘に立てこもり銃撃戦を展開した連合赤軍事件(山岳ベース事件・あさま山荘事件)の犯人のうち2人は京大在学・中退の赤ヘル系ノンセクトだった。無差別の銃撃で25人を殺害し、76人を負傷させたテルアビブ空港乱射事件(1972年)の2人も同様である。京大の赤ヘル系ノンセクトは赤軍派に指導されていた。小俣昌道(68年法学部卒)は赤軍国際部長で、京大全共闘議長であった。

1980年代に入ると、吉田寮の廃寮問題が起こり、1980年代を通して最大の闘争課題となるが、最終的に事実上の廃寮決定撤回を勝ち取る。86年には、内ゲバで中核派メンバー1名が殺害された。70年代、1980年代の赤ヘルノンセクトは、一橋大学鵜飼哲神戸大学市田良彦筑波大学鬼界彰夫京都大学伊藤公雄などの学者や、HIV訴訟の徳永信一、少年実名報道裁判の金井塚康弘、在外被爆者訴訟足立修一、反権力人権基金の多田謡子など人権派弁護士を多数輩出した。暴力によって苛烈な人権侵害をしていた赤ヘル系ノンセクトが、「人権派」を名乗っているのが現状である。

中核派は、1970年代なかばから対権力・対革マル戦争に注力して京大から召還していたが、1981年に熊野寮を足がかりに再登場。当初は黒ヘルをかぶってノンセクトとして登場した。83年の三里塚3・8分裂を期に、熱田派を支援する赤ヘルノンセクトと、北原派を支援する中核派系(熊野寮自治会と農学部自治会)という対立軸を形成し、84年4月、熊野寮自治会の同じメンバーが黒ヘルを白ヘルにかぶり直して中核派として公然登場を実現した。その後、90年初頭まで、教養部を完全に制圧して、教養部では他の政治勢力の活動を許さず、不抜の拠点を維持した。なお、農学部自治会は、80年代の終わりごろに崩壊。 1990年代に入ると、民青系の力が落ち、赤ヘルノンセクトは運動スタイルをやや和らげたこともあり、基盤を広げる。教育学部自治会がノンポリ化、農学部自治会はノンセクトなどで再建、理学部自治会評議会が民青系からノンセクトになった。1997年には赤ヘルノンセクトの主導で、副学長制導入問題に関して、竹本処分以来20年ぶりの総長団交を500人の結集で勝ち取った。一方、民青系は自治会基盤を実質的に失い、同学会、赤ヘル批判もほぼまったくできなくなった。

ただし、団塊ジュニア世代が卒業し始めた90年代後半以降、全共闘運動など新左翼の従来のスタイルを活動家学生ですら知らない場合もある時代となり、赤ヘル系の運動も、もはや自分たちが赤ヘルだという意識は薄い。

かつては京都大学熊野寮自治会は中核派と密接な関係があった。しかし現在、歴史的遺産として、中核派のボックスは熊野寮に存在するが、多数の留学生の受け入れや、内部学生の意識が大きく変化したことによって、熊野寮自治会は寮生の意見調整の場として、本来の自治会機能を取り戻しており、あらゆる暴力的政治組織に加担することはなくなった。

慶應義塾大学編集

1968年春の朝日ジャーナルによる米軍医学部研究資金供与問題の暴露から、日吉校舎封鎖、全額休校状態になったが、1969年学生大会での投票により、封鎖解除を議決、平穏化した。 70年代以降は、日吉、三田、医学部とも活発な運動は、見られない。

国際基督教大学編集

第1期 授業ボイコット - 食費値上げ反対共闘会議
ICUにおける学生運動は、湯浅学長退任後の1961年頃から段階を経て顕在化し始めた。1963年には最高裁によるポポロ事件判決の同日に一度目の授業ボイコットが行われた。初期の段階においては授業ボイコット、およびハンガーストライキなどの手法が主に用いられたが、次第に過激化し、1965年12月16日には学生が「食費値上げ反対共闘会議」を名乗り本館を占拠、バリケードを構築するにいたった。1961年から1975年までの全期間を通じ、すわりこみ、履修登録拒否などの運動も散発的に行われ続けた。
第2期 能研テスト採用および受検料値上げ撤回要求運動
1967年の段階で、運動の争点は「能研テスト採用および受検料値上げ撤回」に移り、2月10日には再度約60名の学生によって本館が占拠された。実質的に休校状態に陥ったICUは、新たに完成した理学館および教会堂において授業を再開した(3月10日)が、これにも断続的妨害が加えられた。同日をもって中心的学生10名に対して除籍を勧告、最終的に処分者は63名にまで及んだ。
同年4月10日、ついに機動隊が突入し、本館は解放された。
第3期 三項目闘争
この騒乱の後も、続いて三項目(ガードマン体制即時撤廃、教授会議事録全面公開、能研処分白紙撤回)要求を争点として全共闘が結成され(1969年2月27日)、依然不安定な状態が続いていた。5月14日にはD館が占拠されたが、10月20日に再度機動隊が出動、バリケードが解除された。10月25日には教育区域として指定された区画の周囲に鉄の板が設置され、断絶の象徴となった(1970年4月19日に除去)。カリフォルニア大学からの留学生や、一部教員も加わった全共闘による運動は1970年5月19日の解散まで続けられた。学生運動の火種はくすぶり続けるものの、幾度かの波を経て少しずつ下降線をたどった。
第4期 学費値上げ阻止、11.17公示撤回要求運動

埼玉大学編集

日向派の最大拠点だったが、現在は絶滅。

静岡大学編集

法経短期大学部で中核派が存在した以外は全学部を民青同系全学連が掌握。ただし現在は不明。

芝浦工業大学編集

1960年末、学費値上げ反対闘争がおこり、1969年はバリケード封鎖のまま越年、1つの学部の教授会が2分裂するなど、紛争は1971年秋まで続いた。この間、1969年9月18日に学生運動史上初めての内ゲバの死者が出た芝浦工大事件が起こる。これは大宮校舎のバリケード内で仮眠中の埼玉大経済学部自治会の委員長であり、中核派系全学連の中執だった滝沢紀昭が「埼大反戦連合」を名乗る勢力によって襲撃され、墜落死した事件。この事件を契機に全共闘運動から離れた活動家は多い。1970年代以降、東京学芸大学と並ぶ第4インターの拠点として大宮校舎、工学部、芝工大寮を握っていた。1980年代芝工大寮が廃寮。現在、学生運動は壊滅。

専修大学編集

1970年代まで生田キャンパスの文連と文化祭実行委員会を革マルが握っていたが、1979年、解放派が革マルを襲撃、革マル派学生が2人死亡した。その後も学術文化会の名前で細々と活動を継続中。

成蹊大学編集

1968年 - 1969年の全共闘時代は解放派が主流だった。1980年代まで、ノンセクトがいて新聞会や文連を握っていたが、後に消滅した。新聞会は1970年代に休部(のち1996年に復活)に追い込まれている。

  • 1963年 - 学生会館闘争。
  • 1967年 - 学生会館闘争での牧田君停学処分自主退学勧告に対し校門でハンスト抗議行動。(牧田吉明は三菱重工社長の息子で、アナキストとしてのちに土田・日石・ピース缶爆弾事件の真犯人宣言をしたり、流行の先端をいくライブハウスや広告代理店を立ち上げたりした)。
  • 1969年 - 学費学館闘争、5月 成蹊初のバリスト(一号館)。
    • 6月 - 総長室、学長室、総務局長室などを封鎖。一週間後自主解除。
    • 9月 - 法経自治会室、新聞会室ロックアウト。
  • 1974年 - 学費値上げ阻止闘争
    • 12月 - 全学ロックアウト。
  • 1975年 - 学費値上げ阻止闘争
    • 3月 - 卒業式の前日に13名処分(無期停学7人、訓告6人)。裁判闘争へ。
  • 1988年ごろ - ノンセクトの社会科学研究会が消滅し、以後学生運動は存在しない。

中央大学編集

1960年代に、いわゆる安保闘争に加えて、完成した学生会館の自主管理闘争、学費値上反対闘争が起こり、ストライキなどの結果、いずれも学生側の勝利に終わった。これに危機感を抱いた大学の理事者側が、弱腰と見られた教授会の上部組織として「常置委員会」の設置を発表。これを「大学自治」の危機と捉えた学生側は「全学中央会議(全中闘)」を結成。「昼間部自治会」とサークル組織であった「学友会」は、闘争に関する権限を全中闘に集約し、全面対決となった。 その後、本学は神田カルチェ・ラタン闘争を主導していく。 1969年に全学ストライキからバリケード封鎖、機動隊導入による排除と大学当局によるロックアウトという事態となり、半年間の中断を経て授業を再開したものの、文化系のサークル活動は壊滅状態で、学内はブント系各派(主に2派)、革マル派、サークルを母体としたノンセクト派、社青同協会派、民青同盟が入り乱れて一触即発状態が長く続いた(現在は社青同協会派は自然衰退しており、革マル派は微弱ながら学友会の中で存在している)。

1978年の文系4学部の多摩キャンパス移転が近づくと、他大学では衰退期に入っていた学生運動が、移転後のサークル室の確保、下宿や通学の見通しの情報不足、遠隔地(後楽園キャンパス)に残る理工学部のサークル活動への不安などの要素もあって、再び盛り上がる。この運動は、学友会の再建運動(1979年に紛争後初めての中央委員会が開催された)、白門祭の復活(それまでは自治組織壊滅により「大学祭」として大学当局主導で行われていたが、セクト間のトラブルでしばしば中止になっていたものを学生主体の「学園祭」として再開)へと続いた。しかしやがて、多摩キャンパスでの学生生活が落ち着くにしたがって、他大学と同様、学生運動は徐々に衰退していった。

筑波大学編集

筑波大学の前身の東京教育大学時代には、末期に筑波移転および筑波大学への移行をめぐって筑波移転反対闘争が起きた。

新設大の中でも特に新しい大学である筑波大には当初学生運動そのものが存在せず、大学側も学生運動を極力排除する方針で学内の管理を厳に行い、貼り紙や立て看板なども厳しく制限し、従わない学生には強権を持って排除し、学内の綱紀を保っており、管理型大学の見本としてあった。
それでも、1970年代の学生運動ピーク時にはノンセクトによる学生運動が他大の支援を受けつつ活発化、1980年に反処連(ノンセクト)と社会学類等の全処連(社青同協会反主流派)による、開学初の集会と学内デモが行われた(筑波大学園祭闘争)。全処連のリーダーだった福嶋浩彦(後に日本社会党公認で我孫子市市長)は、無期停学処分を受けた。
しかしながら、学生運動側も国会に議席を持つ政党に比較的近い立場だったこともあり、血なまぐさい事件はおきていない。そもそも先述の闘争自体、学園祭を開きたいという政治思想というよりは単純に若年の学生としての欲求がきっかけという、他の大学の状況からすれば牧歌的とも言えるものだった。
それをピークに再び運動は下火になり、現在では活動する学生は極少数にとどまり、訪問者がその痕跡を見つけることはむずかしい。

東京大学編集

1968年、医学部の学生がインターン制度に代わる登録医制度に反対し、無期限ストに突入したのを皮切りに東大紛争、東大安田講堂事件へとつながる。

東京芸術大学編集

1960年代には現アートディレクターの北川フラムが大学全共闘リーダーとして1人でバリケードを作った(が決壊した)ほか、70年前後には高校在学時以来、馬場憲治らと活動していた音楽家の坂本龍一らが参加するなどといった形で、いくつかの動きがあったものの活動は断片的であり、結果的に終息に追い込まれている。

同志社大学編集

1949年に各学部自治会やサークルを統括する全学自治組織として「学友会」が設立された。1958年にブントが結成されると、同志社大学友会は関西におけるブントの拠点として機能した。1977年5月19日、これに反発する学内の大成寮と学術(社会科学)系サークルを中心としたグループが学友会執行部を握り、以後はノンセクト・アンチセクト化、この学術(社会科学)系を中心に各サークルから学友会執行部に活動家学生を供給することで、役員を確保する体制が続いた。しかし、学術(社会科学)系サークルが80年代から相次いで消滅したことで、学友会活動の中心的な担い手も減少した。また、90年代前半に50%を超えていた学部自治会の代表選挙の投票率も、2003年には9%にまで落ち込み、学生の関心の低さを示した[46]。2003年12月、中央委員会は現状では役員立候補者を確保することが困難であり、将来的には学友会が自然崩壊する恐れがあるとして解散を決定。2004年4月30日をもって各学部自治会(神学部自治会は翌年解散)とともに学友会は解散した。活動休止を選択しなかった理由について、当時の委員長は後年の産経新聞によるインタビューに対し、カルト宗教や政治セクトによる学友会組織の乗っ取りや僭称を防ぐために解散したと答えている[47]。また学友会解散にあたり、『「同志社の栞」資料集 学友会の《主張》1957〜2004』同志社大学学友会残務整理委員会、元学友会事務職員・水野裕之らによって出版されている。

東北大学編集

1960年代後半は解放派の拠点だった。1970年以降、解放派は日就寮襲撃事件で影響力が低下、中核派が進出した。1990年代まで、中核派と解放派、ノンセクトが共存し、民青と対立していた。1990年代半ばに民青の自治会を中核・ノンセクト連合が奪還した。現在でも「学生自治会」と称する組織がビラまきやアジ演説などを行っているが、耳を貸す学生は少数である。

東洋大学編集

1960年代後半は解放派が第1社自、第2社自、文連などを押さえ全共闘の主流派だった。1970年代は「セクトのデパート」と呼ばれ、中核、革マル、解放、第4インター、フロント、プロ青同、L学同、人民連帯、赤軍プロ革、社青同協会派、民学同新時代派、民青がごった煮状態で共存していた。1977年、経自再建(のち崩壊)。1979年、反移転・学費闘争。

日本女子大学編集

1970年代は自治会を社青同協会反主流派が握り、バリストも行われていた。

法政大学編集

全共闘時代、「セクトのデパート」と呼ばれていた。最大勢力の中核派、一時は『中核派』をしのぐ勢いがあった解放派、ML、フロント、革マル派、マル戦派、武装蜂起準備委員会が活動していた。 1970年代以降は、中核派が他党派を放逐し、一文・一法・一経・経営・二部教養の自治会を掌握、支配権を確立した。

ノンセクトは、一社や二教、府中寮の自治会、第一文化連盟(一文連)・第二文化連盟(二文連)・学生団体連盟(学団連)、任意団体連合(任連)などサークル団体執行部を握り、黒ヘルノンセクトの法大全共闘として活発な活動を行ってきた。1970年中核派による革マル派・海老原殺害事件を口実にして大学当局は、殺害現場となったサークルボックスのある六角校舎を解体するとともに、夜間休日学生立ち入り禁止など「三条件六項目」によるロックアウト体制を強行、飯田橋本校地区全体を取り囲む鉄柵を設置し、「法大動物園」を現出させた。 1971年学費値上げに対して、法大全共闘は、サークルボックスを含む学生会館建設に当たっての学生自主管理を掲げ、学費学館闘争として決起した。一方で中核派は入管闘争を主として闘い、学内闘争の場面においては、学費学館闘争を機に、黒ヘルノンセクトの法大全共闘が台頭していく。特に、学館闘争は自治会よりもサークル団体の問題として広範なサークル員に共感を広げ、各サークルに闘争委員会ができ、一文連のサークル共闘会議など、法大全共闘の主力を担っていった。当時62年館(市ヶ谷地区)を拠点にしていた日共系が運営に当たっていた生協の主導権をめぐり、学館での生協運営について学生連盟総会で日共系生協を排除したことに対して、1973年6月19日夕刻から、九段会館で開催されていた不破哲三の集会に集まった民青部隊と本校に潜入していた部隊が、本校防衛に当たっていた法大全共闘と正門と55年館などで激突、竹ヤリ、投石によるゲバルト戦が繰り広げられ、飯田橋?市ヶ谷一帯は麹町署による戒厳下に置かれた。学館をめぐる闘いは、法大全共闘によって数次の泊まり込みによる夜間ロック粉砕・三条件六項目解体闘争が行われてきたが、73年11月14日、自治会・サークル員を中心に泊まり込み闘争に決起、70数名の逮捕者を出し、一気に闘いの高揚期を迎えた。また、法大全共闘は、1974年狭山闘争の高揚を前に部落問題研(解放研)とともに「狭山差別糾弾闘争連絡会議(狭糾連)」を結成、日共=解放同盟正常化連による「橋のない川」上映運動反対闘争、10・31寺尾判決糾弾闘争などを展開した。三里塚(浅川団結小屋労学連)などの現地闘争や日大・中大・明大・電通大のノンセクトとともに五大学共闘を形成して街頭デモなど共同闘争を展開した。

こうした大衆的実力闘争を重ねてきた法大全共闘は、時に中核派の意に沿わないとして放逐されることもある。その後1980年代に入り、対革マル戦争を終息させた中核派が法大に戻り、黒ヘル系法大全共闘を暴力的に排除した。多摩移転後の一社自は全国唯一のノンセクト自治会だったが、1990年代半ばに非公認化となる。市ヶ谷の自治団体を握っていた中核派も2000年代に入ると経営学部自治会が非公認になり、学生会館の取り壊しも手伝ってかその勢力を大きく落とした。

2006年には学生運動に対する一斉検挙が行われた。 2008年5月には法政大学文化連盟が中核派系全学連と共に学内デモを実行し、活動家33名が逮捕された。しかし2008年4月の“学生が警備員に暴行した”とされ逮捕された問題では、警備員の行為が警備業法に違反する実力行使であった事実が認定され無罪判決が下っている。

武蔵工業大学編集

1960年代は学友会、育励会、文連を中核派が握っていたが、解放派と社青同太田派がヘゲモニーを握った。第1次羽田闘争では、解放派の出撃拠点だった。1970年代前半に太田派から分派した人民の力派の拠点となり、さらに人民の力派から除名されたグループの学生組織であるL学同が1970年代を通じて学友会、育励会を握っていた。1980年代に入り壊滅状態となった。

明治大学編集

1968年〜1969年、東京・神田駿河台の学生街で起きた暴動事件(神田カルチェ・ラタン闘争)など、学生運動が活発な大学の1校であった。(明大紛争)。しかし、1970年代前半に崩壊し、その後再建された学生会および学苑会(二部の全学自治会)は中執=解放派、営自・二文自=竹内ブント、商自=人民連帯、社研=L学同の明大4派共闘。また反勝共反原理首都圏共闘会議に集うノンセクトや赤色戦線などがいた。

1975年春に、和泉校舎の学館に迷い込んだ新入生が革マル派のスパイと誤認され、解放派に暴行を受ける事件が発生。
1982年頃、明大生協(8号館)闘争の折、明大4派共闘は、対立したノンセクトや赤色戦線を明治から実力で放逐。

1990年代に入ると、解放派の最大拠点校となり、「全人民解放の砦」と謳われた。竹内ブントは二文自、また地下サークル連合をアナキストが握っていた。 2000年代になって当局より解放派は放逐された。

  • 東京大学で発生した東大安田講堂事件では警視庁と対立した学生運動側の幹部を明治大学生が務めていた。
  • 2009年時点では入学試験などの日程を中心に受験生に対して明大当局打破を呼びかけるビラ配布や拡声器による情宣を行うなど勢力は落ちたものの活動を続けている。

桃山学院大学編集

自治会から生協まで赤軍派が掌握。生協の書店部の店頭には赤軍派の機関誌が平積みにされていた。

山形大学編集

  • 1978年3月26日・山形大における自治会活動を中心的に担ってきた新山幸男をはじめとする部隊が、成田空港管制塔突入部隊に呼応し、同空港第9ゲートからトラックで突入。警察の発砲を受け、トラックに積載した廃油が発火。新山は全身やけどの重傷を負うが、そのまま手錠をかけられ成田国際空港警察署に約6時間放置された後、警察病院に搬送。その後、数次にわたる皮膚の再生手術を受けたが同年6月13日、24歳で死亡した。
  • 1998年 - 学生寮の廃寮攻撃に対しノンセクトが反対運動。
  • 2000年 - 寮生の4人が逮捕され、寮の強制捜査が行われる。
  • 2001年2月19日 - 明け渡し仮処分に基づく執行が機動隊を使って強制的に行われた。寮生および支援の学生(約80人)が座り込みで抗議。

和光大学編集

1970年代までサークル連合のノンセクトと文化祭実行委員会を握る革マルが共存。1980年代に入り中核派が進出。

民族派編集

民族派では、かつては、民族派学生組織として活動していた生長の家学生会全国総連合は、今はエコロジー保守に近い立場の宗教的なサークル集団となっており、SEALDsに参加するメンバーも存在するなど、右翼色は軽減されている。一方で、民族派でも全日本学生文化会議のようにいまだに活動している組織もある。

学生運動に参加した著名人編集

学生運動を描いた作品編集

小説編集

ノンフィクション編集

歌集編集

映画(書籍の映画化作品は除く)編集

ドラマ編集

音楽編集

マンガ編集

ゲーム編集

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 福本和夫は学生に人気で独特の文体も流行した。

出典編集

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  39. ^ 法政大学百年史編纂委員会 『法政大学百年史』 法政大学、1980年、333-334頁
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  47. ^ 「学友会委員長に就任した小西さんは03年12月、組織の休止ではなく、解散を選択した。3回生のときだ。『予算を狙われ、カルト宗教や特定の政治セクトに乗っ取られる恐れもあった。組織を悪用されたり、勝手に自称されたりしないようにするため、きちんと解散したほうがよいと思った』」(河居貴司・産経新聞取材班2009 - p.192)。
  48. ^ 松岡正剛 (2003年6月5日). “松岡正剛の千夜千冊 789夜 カール・マルクス 経済学・哲学草稿”. 編集工学研究所. 2013年3月26日閲覧。松岡正剛は、高校、大学を通して石井の後輩にあたる。
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  50. ^ 内田樹 『「おじさん」的思考晶文社、2002年4月、118-119頁。
  51. ^ 『アウトロー狂騒曲』p22
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  55. ^ 『中上健次・時代と文学』川村三郎・柄谷行人
  56. ^ a b 『bungei』2000年秋号
  57. ^ 『突破者』宮崎学
  58. ^ 『左翼はどこへ行ったのか!?』p24

参考文献編集

  • 菊川忠雄学生社会運動史』 海口書店、1947年
  • 菅孝行 『全学連』 現代書館、1982年9月
  • 蔵田計成 『安保全学連』 三一書房、1969年
  • 高木正幸 『全学連と全共闘』 講談社〈講談社現代新書〉、1985年4月
  • 日本大学文理学部闘争委員会書記局編 『叛逆のバリケード-日大闘争の記録』 三一書房、1991年9月
  • 日本大学文理学部闘争委員会書記局・『新版・叛逆のバリケード』編集委員会編著 『叛逆のバリケード:日大闘争の記録』 三一書房、2008年9月
  • 角間隆 『赤い雪-総括・連合赤軍事件-ドキュメント』 読売新聞社、1980年2月
  • れんだいこ 『検証学生運動-戦後史のなかの学生反乱』上巻、社会批評社、2009年2月
  • 同志社大学学友会 『「同志社の栞」資料集 : 学友会の《主張》1957〜2004』同志社大学学友会残務整理委員会編、2005年2月

関連項目編集

外部リンク編集

  1. ^ 朝鮮日報/朝鮮日報日本語版. “【寄稿】日本の学生運動世代からなぜマルクス主義者が消えたのか” (日本語). www.chosunonline.com. 2020年7月14日閲覧。