生駒 正信(いこま まさのぶ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将通称は甚助。

 
生駒 正信
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 生年不明
死没 元和元年7月13日1615年9月5日
別名 甚助(通称
戒名 及尽院功岳宗勲禅定門
主君 生駒正俊豊臣秀頼
讃岐高松藩
氏族 土田生駒氏→高松氏
父母 生駒一正
兄弟 正俊、山里、近藤政成正室、正信入谷盛之正房
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略歴

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生駒一正の次男として誕生する。家臣の高松内匠長重が病死すると、父の命により高松家の家督を継いだ[1]

その後は兄・正俊に仕えて讃岐国大内郡で1万石を与えられ、引田城与治山城に在番するが、正俊とは不仲であり、慶長20年(1615年)4月11日、讃岐を退去して大坂に赴いた[1]

大坂の陣では馬上30騎を預けられ、大野治長の組に付属された[2]大坂城落城後は旧臣の山地源兵衛近房方に落ち延び、寒川郡奥山村に潜伏するが、山伏の天輪坊の密告により居場所が発覚、その後、正俊の命により元和元年(1615年)7月13日に自害した。一説には奥山村の里人が正信を饗宴に誘い出して殺害したともいう。法名は及尽院功岳宗勲禅定門[2]

脚注

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  1. ^ a b 柏木 2018, p. 115.
  2. ^ a b 柏木 2018, p. 116.

参考文献

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  • 柏木輝久『大坂の陣 豊臣方人物事典』北川央 監修(2版)、宮帯出版社、2018年。ISBN 978-4-8016-0007-2