生駒親賢

日本の江戸時代中期~後期の武士。江戸幕府旗本生駒親猶長男で、交代寄合(表向御礼衆)旗本生駒氏6代当主

生駒 親賢(いこま ちかかた、享保2年10月21日1717年11月23日[1] - 天明6年6月28日1786年7月23日))は、江戸時代中期の交代寄合旗本通称は亀次郎、大蔵、刑部、内記、主殿、主膳。

生涯 編集

交代寄合生駒親猶の長男として誕生した。享保16年(1731年)3月22日、将軍徳川吉宗御目見する。宝暦3年(1753年)10月4日、親猶の死去により家督を相続する。宝暦11年(1761年)10月1日、幕府から輪王寺宮公遵法親王に従い上洛することを命じられる。明和8年(1771年)8月8日、隠居し、養子の親睦に家督を譲る。天明6年(1786年)6月28日、死去。70歳。

正室は六郷政晴の娘(婚約のみ)、水野勝政の娘。2男5女あるが、そのうち養男子2人、養女2人。最初に丹羽高寛の二男・親信を養嗣子に迎えたものの、親賢に先立って死去してしまった。このため親信の室(津田信成娘)を養女とし、本多正矩の七男・親睦を婿養子に迎え、家督を譲った。

弟の親芳の娘を養女に迎え、村上正親の室となった。実娘のうち1人は土屋雄直の室、2人は親睦の養女となった。

脚注 編集

  1. ^ 『秋田県史 [通史編] 第7巻 (年表索引編)』(秋田県、1966年)附録 各藩歴代藩主系譜 p.7

参考文献 編集