申用漑
1463-1519, 李氏朝鮮前期の文臣、政治家と儒学者、哲学者
申 用漑(シン・ヨンゲ、しん ようがい、ハングル: 신용개、天順7年10月5日(1463年11月15日) - 正徳14年10月3日(1519年10月25日))は、李氏朝鮮前期の文臣・政治家・儒学者・哲学者。初名は白岳。字は漑之・白岳・纔踰、号は二楽亭・松渓・休休子・睡翁。諡号は文景。本貫は高霊申氏。世祖代の権臣申叔舟の子の申㴐の子である[1][2]。
申用漑 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 신용개 |
漢字: | 申用漑 |
発音: | シン・ヨンゲ |
日本語読み: | しん ようがい |
ローマ字: | Shin Yong-gae |
経歴・業績
編集申叔舟と鄭孝恒・金宗直の門下で性理学の修学し、1488年文科に及第して三司の主な官職を歴任した。1498年彼は戊午士禍で投獄されたが釈放され直提学と都承旨を過ごし、1504年、甲子士禍に巻き込まれ、全羅南道霊光郡に流刑された[3]。 1506年中宗反正以後の釈放されたし1507年には明に入朝、中宗の冊封有名に受けてきた功労で原従功臣となった。以降、大提学と吏曹判書、礼曹判書、右賛成などを経て、1516年に右議政[4]、1518年に左議政を務めた[3]。
彼は勲旧派だったが、金宗直の門人がされ士林派に転向した。士だったが、弓術と乗馬、槍投げにあまねく精通している。彼は中宗が許さなかったし、病気で死んだ。
著作
編集- 『二楽亭集』
- 『続東文選』
- 『続三綱行実図』
脚注
編集関連項目
編集外部リンク
編集- 申用漑
- 申用漑
- [이덕일 사랑] 부자정승(父子政丞) 조선일보 2008.09.26
- 국화와 술로 나눈 교감
- 성애 편지(?) 조선일보 2008. 12. 04