畠山 晴俊(はたけやま はるとし)は、戦国時代武将能登畠山氏の一族。

 
畠山 晴俊
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 永禄元年(1558年
別名 四郎(通称
氏族 畠山氏能登畠山家
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略歴 編集

晴俊は能登畠山氏の内紛によって能登を離れ京都に移り住んだ畠山九郎の一党と考えられ、弓倉弘年天文14年(1545年3月13日、幕府に太刀と馬を献上した畠山四郎を晴俊に比定している[1]

天文24年(1555年)に起こった弘治の内乱温井続宗三宅総広らに擁立されて反乱軍の盟主となり、畠山義綱を籠城に追い込んだ。

その後、甲斐武田信玄加賀一向一揆阿岸本誓寺などの援護を受けて戦勝を重ね、弘治3年(1557年)頃まで勝山城を拠点に活動した。しかし越後上杉謙信越中椎名宮千代の支援を受けた義綱の反撃により、永禄元年(1558年)頃に勝山城は落城、晴俊も敗死したとみられる[2]

脚注 編集

  1. ^ 弓倉弘年『中世後期畿内近江守護の研究』清文堂出版株式会社、2006年12月10日、240-241頁。ISBN 9784792406165 
  2. ^ 阿部猛西村圭子『戦国人名事典 コンパクト版』新人物往来社、1990年9月10日、631頁。ISBN 4404017529