畠山 義元(はたけやま よしもと)は、室町時代能登守護大名

 
畠山 義元
時代 室町時代後期
生誕 不明
死没 永正12年10月20日1515年11月25日[1]
別名 左馬介、二郎(通称)
戒名 興徳寺殿久峰徳昌大居士
官位 修理大夫
氏族 畠山氏(能登系)
父母 父:畠山義統 母:蔵春院
兄弟 義元慶致
上杉房定の娘?
畠山宮内少輔、女子
養子:畠山義総
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生涯編集

畠山義統の嫡男として生まれる。明応6年(1497年)、父が死去したため、家督を継いで当主となった。しかし父と違って統率力が無く、そのために明応9年(1500年)に弟の畠山慶致を擁立しようとする守護代遊佐統秀らに謀反を起こされて、越後に追放された。

しかし永正3年(1506年)、北陸において大規模な一向一揆が起こると、畠山氏内部で義元の復帰を望む動きが起こった。永正5年(1508年)、第10代将軍であった足利義稙大内義興に擁されて上洛して復権を果たすと、親義稙派であった義元陣営の巻き返しが本格化し、これに押された慶致は隠居して義元が当主として復帰することとなった。このとき、慶致の嫡男である畠山義総を養嗣子として迎え、二元政治を開始している。程なく、上洛して義稙の側近として仕えた。永正10年(1513年)、能登で家臣による反乱が起こると帰国し、義総と共に鎮圧している。

永正12年(1515年)に死去し、後を養子の義総が継いだ。

脚注編集

  1. ^ 「能州畠山氏略記」(『大日本史料』第9編之6 3頁)