百済王明信

奈良時代から平安時代初期にかけての女官。

百済王 明信(くだらのこにきし みょうしん / めいしん、生年不詳 - 弘仁6年10月15日815年11月19日))は、奈良時代から平安時代初期にかけての女官

時代祭りの百済王明信

生涯 編集

桃園右大臣藤原継縄に嫁ぎ、乙叡を生む。

宝亀元年(770年正五位下[1]、宝亀6年(775年)正五位上[2]、宝亀11年(780年従四位下[3]天応元年(781年)従四位上[4]延暦2年(783年正四位下[5]、同年に正四位上[6]とつづけて昇叙される。延暦6年(787年)高椅津への行幸の帰りに従三位に叙される[7]。延暦16年(797年)には尚侍を賜る[8]。2年後に正三位に昇る[9]弘仁6年(815年)10月に没。従二位であった。

桓武天皇との関係 編集

桓武天皇は百済からの帰化系氏族を重用してきたが、特に明信は天皇の寵愛を受けていた。『日本後紀』によると、延暦14年(795年4月1日の宴にて天皇が、

いにしえの野中古道あらためばあらたまらんや野中古道

と古歌を誦し、明信に対して返歌を求めた。しかし明信はこれができなかったので、天皇は明信に代わって

きみこそは忘れたるらめにぎ珠のたわやめ我は常の白珠

と詠んだという。また、明信の息子の乙叡の薨伝には、「…母尚侍百濟王明信被帝寵渥。」とあり、ここからも明信が天皇に寵愛されていたことが窺える[10]

脚注 編集

  1. ^ 続日本紀』宝亀元年10月25日条
  2. ^ 『続日本紀』宝亀6年8月10日条
  3. ^ 『続日本紀』宝亀11年3月1日条
  4. ^ 『続日本紀』天応元年11月20日条
  5. ^ 『続日本紀』延暦2年10月16日条
  6. ^ 『続日本紀』延暦2年11月24日条
  7. ^ 『続日本紀』延暦6年8月24日条
  8. ^ 『日本後紀』延暦16年正月24日条
  9. ^ 『日本後紀』延暦18年2月7日条
  10. ^ 『日本後紀』大同3年6月3日条(藤原乙叡薨伝)

参考文献 編集

  • 森田悌『日本後紀 全現代語訳』 上、講談社講談社学術文庫〉、2006年10月。ISBN 4-06-159787-6 
  • 森田悌『日本後紀 全現代語訳』 中、講談社〈講談社学術文庫〉、2006年11月。ISBN 4-06-159788-4 
  • 森田悌『日本後紀 全現代語訳』 下、講談社〈講談社学術文庫〉、2007年2月。ISBN 978-4-06-159789-1 

関連項目 編集