矢口正喜
矢口 正喜(やぐち まさよし[1]、宝暦9年(1759年) - 文政2年6月18日(1819年8月8日))は江戸時代中後期の上野国八幡八幡宮神職。俳諧・和算・医学・心学に通じた。
矢口 正喜 | |
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別名 | 正喜・重斯・重友(友重)・重栄(名)、主殿・丹波正(通称) |
個人情報 | |
生誕 |
矢口林之助 宝暦9年(1759年) |
死没 |
文政2年6月18日(1819年8月8日) 同上 |
宗教 | 神道 |
子供 | 矢口一彡 |
両親 | 矢口並保 |
宗派 | 吉田神道 |
主な著作 | 『矢口丹波正日記』 |
別名 | 正喜・重斯・重友(友重)・重栄(名)、主殿・丹波正(通称) |
筆名 | 花鳥(花蝶)(号) |
寺院 | 八幡八幡宮 |
経歴
編集子孫矢口米三が参道沿いの屋敷内に建てた矢口丹波記念文庫には正喜の筆写資料が数多く所蔵され[2]、その名乗りや関心の変遷を追うことができる。
宝暦9年(1759年)上野国八幡八幡宮神職矢口家7代目並保の子として生まれた[3]。10代には林之助(祐)重斯と名乗り、『天草軍談』『慶安太平記』『箕輪軍記』等の実録物を好んで筆写した[4]。安永7年(1778年)から主殿と称し、また花鳥(花蝶)の号も用いた[5]。
天明元年(1781年)9月頃重斯から重友に改名した[5]。平花庵生方雨什等高崎の俳人と盛んに交流し、天明3年(1783年)4月20日羽鳥一紅の来訪を受けている[6]。天明7年(1787年)板鼻村小野栄重から算額の奉納を受け入れ、この頃から和算に傾倒した[7]。天明8年(1788年)頃重栄に改名した[8]。
寛政4年(1792年)頃には荻生徂徠著書を多く筆写している[9]。寛政7年(1795年)から正喜の名が見える[9]。寛政12年(1800年)医書の筆写を始め、地元の医療に貢献した[10]。享和3年(1803年)頃から心学に傾倒した[10]。この頃、名を正喜から重友に戻したか[11]。文化5年(1808年)父並保の死去により丹波の称を継ぎ、名も正喜に復した[12]。
著書
編集矢口家
編集本姓は藤原氏[4]。西毛出身[14]。初代三浦茂尊(天正8年(1580年)没)は小屋城主越前守春継に仕えたが、永禄11年(1568年)武田信玄に攻略された後、下板鼻八幡宮に落ち延び、ニノ祢宜矢口家の養子となったという[15]。
脚注
編集- ^ a b “八幡宮奉納算題解義”. 狩野文庫データベース. 東北大学附属図書館. 2018年6月5日閲覧。
- ^ 紅林 2014, p. 91.
- ^ a b c d e 紅林 2014, p. 92.
- ^ a b 紅林 2014, p. 93.
- ^ a b 紅林 2014, p. 94.
- ^ 金田 2017, pp. 3–4.
- ^ 紅林 2014, p. 96.
- ^ 紅林 2014, pp. 95–96.
- ^ a b 紅林 2014, p. 97.
- ^ a b 紅林 2014, p. 98.
- ^ 紅林 2014, p. 99.
- ^ 紅林 2014, p. 100.
- ^ “矢口家丹波正日記”. 高崎市の文化財. 高崎市. 2018年6月5日閲覧。
- ^ 高崎市 2002, p. 658.
- ^ 紅林 2014, pp. 91–92.
- ^ a b 紅林 2014, p. 104.
- ^ a b c d 紅林 2014, p. 105.
参考文献
編集- 国文学研究資料館基幹研究「近世における蔵書形成と文芸享受」矢口丹波記念文庫担当チーム「矢口丹波記念文庫蔵書目録」『国文学研究資料館調査研究報告』第34号、人間文化研究機構国文学研究資料館、2014年3月。
- 紅林健志「高崎矢口家における筆写活動 ―写本の奥書を中心に―」『国文学研究資料館調査研究報告』第34号、人間文化研究機構国文学研究資料館、2014年3月。
- 金田房子「上毛の俳諧宗匠・矢口一彡をめぐる人々―春秋庵一門と和算家―」『清泉女子大学人文科学研究所紀要』第38号、清泉女子大学人文科学研究所、2017年6月。
- 高崎市市史編さん委員会『新編高崎市史』 資料編8 近世4、高崎市、2002年3月。
- 高崎市市史編さん委員会『新編高崎市史』 通史編3 近世、高崎市、2004年3月。
外部リンク
編集- 矢口丹波記念文庫 画像一覧 - 国文学研究資料館