破六韓 常(はろくかん じょう、生没年不詳)は、中国北魏末から東魏にかけての軍人は保年。本貫附化郡(現在の山西省寿陽県の北)[1][2]

経歴 編集

破六韓氏は匈奴単于の末裔とされる。右谷蠡王潘六奚がで没し、その子孫が潘六奚を氏としたが、後世の人が誤り伝えて破六韓氏としたという。正光5年(524年)、一族の破六韓抜陵が乱を起こすと、破六韓常の父の破六韓孔雀はその下で大都督・司徒・平南王となった。のちに孔雀は爾朱栄に降伏して、平北将軍・第一領民酋長となり、死去した[3][2][4]

破六韓常は孔雀の末子であった。沈着で胆力があり、騎射を得意として、北魏の平西将軍に累進した。普泰元年(531年)に高歓が起兵すると、破六韓常は附化郡太守となった[5][2][4]。のちに右衛将軍となった。天平3年(536年)6月、万俟普万俟洛・叱干宝楽らとともに東魏に帰順した[6][7][8]。撫軍となり、高歓の征戦に従って車騎大将軍・開府に上り、平陽公に封じられた。のちに洛州刺史に任じられた。太谷道の南に城を築くよう高澄に進言して容れられ、高澄は大司馬斛律金らを派遣して楊志・百家・呼延の三鎮を築かせた。破六韓常は晋陽に帰ると、太保滄州刺史を務め、死去した。尚書令司徒公太傅・第一領民酋長の位を追贈され、を忠武といった[5][9][4]

脚注 編集

  1. ^ 氣賀澤 2021, p. 368.
  2. ^ a b c 北斉書 1972, p. 378.
  3. ^ 氣賀澤 2021, pp. 368–369.
  4. ^ a b c 北史 1974, p. 1903.
  5. ^ a b 氣賀澤 2021, p. 369.
  6. ^ 氣賀澤 2021, p. 39.
  7. ^ 北斉書 1972, p. 19.
  8. ^ 北史 1974, p. 225.
  9. ^ 北斉書 1972, pp. 378–379.

伝記資料 編集

参考文献 編集

  • 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6 
  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4