磯部 百鱗(いそべ ひゃくりん、天保7年6月21日グレゴリオ暦1836年8月3日〕 - 明治39年〔1906年4月17日)は、伊勢国日本画家御師神官本名愛之助、別号に華水。「神都有数の画人」と称され、伊藤小坡ら数多くの門人を育てた[1]

磯部百鱗
原語名磯部百鱗
生誕磯部愛之助
天保7年6月21日
グレゴリオ暦1836年8月3日
日本の旗 日本伊勢国度会郡宇治今在家町
死没 (1906-04-17) 1906年4月17日(69歳没)
国籍日本の旗 日本
著名な実績日本画
運動・動向四条派
受賞東洋絵画展覧会金牌
メモリアル 松木翁之碑(現存せず)
民族 大和民族
影響を受けた
芸術家
林棕林、長谷川玉峰、中林竹渓
影響を与えた
芸術家
伊藤小坡、中村左洲

経歴編集

天保7年6月21日(グレゴリオ暦:1836年8月3日)に[2]代々伊勢神宮の御師を務める「磯部大夫」の家系に生まれる[3]。磯部大夫は宇治今在家町に邸宅を構えていた[3]。百鱗邸跡は皇大神宮(内宮)前から徒歩4分のところにある[4]

初め山田宮後町の画家である林棕林に入門し、後に京都へ上り長谷川玉峰に師事する[5]。ここで四条派の流麗な画風を身に付けた[4]。また故実中林竹渓から、俳諧を神風館只青(爲田只青)から学び、久保田米僊今尾景年鈴木松年と交友を持った[3]

その後伊勢に戻って伊勢神宮に奉職する傍ら、画家としての活動を続け、京都博覧会で銅牌、東洋絵画展覧会で金牌を獲得し、名声を得た[3]。門人に伊藤小坡、江村隆章、川口呉川、鈴木紫陽、田南岳嶂、中村左洲、橋本鳴泉、吉田百僊らがいる[1][3]伊東里きの従妹である伊藤くにゑも百鱗に日本画を学んだ[6]

1906年(明治39年)4月17日に[3]辞世の句「形こそ消ゆれ命は野に山に」を残し、69歳(数え年で71歳[3])で生涯を閉じた[7]

没後編集

磯部百鱗の没後、浦田坂東桜岡に「松木翁之碑」が建てられ、磯部の伝記が記された[3]2006年(平成18年)には没後100年を記念して神宮徴古館で同館所蔵作品と個人蔵の作品を合わせて磯部の記念展が開催された[7]

おはらい町土産品店・飲食店を営む岩戸屋は、伊勢まちかど博物館の1つである「百鱗房」を運営し、磯部の作品を季節に合わせて展示している[8]

人物編集

恬淡寡欲な人物であったという[3]。一般に四条派の画家とされる[4]が、武者絵には土佐派などの影響がみられる[9]

脚注編集

  1. ^ a b 伊勢市 編(1968):457ページ
  2. ^ 磯部百鱗(いそべ ひゃくりん)とは”. コトバンク. 2015年2月5日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i 宇治山田市役所 編(1929):1350ページ
  4. ^ a b c 門前町宇治の旅人 - ふるさと三重、再発見の旅”. 観光三重. 三重県観光連盟. 2015年2月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年2月5日閲覧。
  5. ^ 宇治山田市役所 編(1929):1348, 1350ページ
  6. ^ 里き・源吉の手紙を読む会 編(2011):30ページ
  7. ^ a b 伊勢出身の日本画家「磯部百鱗」展―没後100年で” (2006年8月20日). 2015年2月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年2月5日閲覧。
  8. ^ 三重県まちかど博物館/まちかど博物館詳細/百鱗房(岩戸屋)”. 2015年2月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年2月5日閲覧。
  9. ^ 小坡美術館/美術講座のお知らせ”. 猿田彦神社 (2012年7月). 2015年2月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年2月5日閲覧。

参考文献編集

  • 伊勢市 編『伊勢市史』伊勢市役所、昭和43年3月31日、954p.
  • 宇治山田市役所 編『宇治山田市史 下巻』宇治山田市役所、昭和4年3月5日、1690p.
  • 里き・源吉の手紙を読む会 編『故国遙かなり―太平洋を渡った里き・源吉の手紙』ドメス出版、2011年3月15日、207pp. ISBN 978-4-8107-0750-2

関連項目編集