福光園寺

山梨県笛吹市御坂町大野寺にある寺院

福光園寺(ふっこうおんじ)は、山梨県笛吹市御坂町大野寺に所在する寺院真言宗智山派に属し、山号は大野山。本尊不動明王

福光園寺

本堂
所在地 山梨県笛吹市御坂町大野寺2027
位置 北緯35度36分30.7秒 東経138度40分31.8秒 / 北緯35.608528度 東経138.675500度 / 35.608528; 138.675500座標: 北緯35度36分30.7秒 東経138度40分31.8秒 / 北緯35.608528度 東経138.675500度 / 35.608528; 138.675500
山号 大野山
宗派 真言宗智山派
本尊 不動明王
札所等 甲斐百八霊場第四十番
文化財 木造吉祥天及び二天像(国の重要文化財
法人番号 3090005002419 ウィキデータを編集
福光園寺の位置(山梨県内)
福光園寺
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概要 編集

 
山門(2012年7月撮影)

所在する笛吹市御坂町大野寺は甲府盆地南東端に位置しており、周囲はモモを中心とする果樹園が広がる傾斜地で、南は御坂山地に近接している。

古代には後期国府の所在する八代郡にあたり、近辺には瑜伽寺(笛吹市八代町永井)や九品寺(同市御坂町成田)、智光寺(同市境川町藤垈)など創建が古代に遡る寺院が分布している。

創建時期は不明であるが、古くは駒岳山大野寺と称し、平安時代後期の保元2年(1157年)に大野重包(対馬守)により再興されたといわれ、賢安を中興開山としている。平安時代には10世紀に成立した『聖徳太子伝暦』に記される甲斐の黒駒伝承た伝わる[1]。これは聖徳太子が「黒駒」と呼ばれるにまたがり富士山頂に達したとする伝承で、山梨県では富士山周辺や古代官道・甲斐路(御坂路)周辺の寺社などに伝わっている[1]。「甲斐の黒駒」は『日本書紀』雄略天皇13年条、『続日本紀天平3年(731年)12月21日条に登場し、甲斐国司・田辺史広足が朝廷に神馬を献上したと記されている[2]。福光園寺にはこの甲斐の黒駒に関する伝承が伝わり、裏山は黒駒牧であったという[2]。 現在、9時から17時までの間に拝観ができる[3]

文化財 編集

重要文化財(国指定) 編集

吉祥天像は立像に表すものが多いが、本作は坐像の吉祥天の左右に両脇侍として二天(持国天・多聞天)を配した珍しいものである。木造・彩色[4]。三像とも材の寄木造[4]玉眼嵌入[4]。法量は中尊の吉祥天像が像高108.8センチメートル、持国天像が像高116.8センチメートル、多聞天像が像高118.7センチメートル[4]
吉祥天像内の墨書銘[5]から、鎌倉時代の寛喜3年(1231年)に中興三世の良賢を勧進、甲斐の在庁官人である三枝氏檀越仏師蓮慶の作と判明する[6][4]。また、墨書銘にみられる「左衛門尉藤原定隆」を甲斐の国主とする説もある[4]
(吉祥天 本体像内胸腹部墨書)
大小野寺
奉造立 大吉祥天女并二天
大勧進 良賢聖人
大檀進 三枝尼妙 三枝守縄
三枝信家 芳縁三枝氏
三枝真守 芳縁三枝氏
三枝守員 芳縁橘氏
諸檀施主 三枝厚守
橘重信
大仏子 蓮慶大徳
寛喜三年大蔵辛卯十月 日
(像内背面)
左衛門尉藤原定隆
— 福光園寺・吉祥天及二天像像内銘
『甲斐国志』によれば、福光園寺が大野重包により再興された際には石造の吉祥天像が存在していたが、寛喜2年に三枝某が木造の吉祥天像を制作し、併置したとされ、本三尊像にあたると考えられている[4]。蓮慶は鎌倉前期の慶派仏師で、山梨県内では三枝氏の氏寺である甲州市勝沼町の大善寺に伝来する十二神将像などを制作している[4]。鎌倉期には甲斐源氏の一族による新しい信仰が盛んになる中、古くからの在地勢力による信仰を示す作例として注目されている。

脚注 編集

  1. ^ a b 末木(2014)、p.58
  2. ^ a b 末木(2014)、p.59
  3. ^ 富士の国やまなし観光ネット
  4. ^ a b c d e f g h 『山梨の名宝』、p.122
  5. ^ 銘の全文は『山梨県史』資料編7中世4考古資料に所載。
  6. ^ 「新指定の文化財」『月刊文化財』237号、第一法規、1983

参考文献 編集

  • 『日本歴史地名大系19 山梨県の地名』平凡社1995年
  • 『祈りのかたち-甲斐の信仰-』山梨県立博物館2006年
  • 『山梨の名宝』山梨県立博物館、2013年
  • 塩田義遜「福光園寺の吉祥天像と廃満願寺の十一面観音」『甲斐路 No.2』山梨郷土研究会、1961年
  • 末木健「「聖徳太子と甲斐の黒駒」伝承」『甲斐の黒駒-歴史を動かした馬たち-』山梨県立博物館、2014年

関連項目 編集

外部リンク 編集