福原 広門(ふくばら ひろかど、享保18年(1733年) - 寛政3年7月15日1791年8月14日))は、長州藩永代家老・宇部領主福原家19代。

父は福原元貞。母は福原元房の娘。正室は毛利元雅の娘。子は福原就清。初名俊茂、後に藩主・毛利宗広偏諱を受けて広茂広門と改名。通称少輔三郎、豊前、肥後、近江。

生涯

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享保18年(1733年)福原元貞の長男として生まれる。寛保元年(1741年)父の死去により家督相続。宝暦2年(1752年)藩主毛利重就の初の御国入を三田尻で出迎える。宝暦4年(1754年)大頭役となる。同年毛利元雅の娘と結婚。宝暦7年(1757年)御国加判役となる。宝暦11年(1761年)辞職。

宝暦12年(1762年)山口常栄寺において毛利隆元二百回忌の藩主名代・総奉行を務める。宝暦13年(1763年)宝暦検地で新たに登録された土地のうち、四分方を本知に加え知行高11,314石となる。明和7年(1770年)江戸からの帰途、安芸国吉田荘の毛利元就廟に参拝する。天明9年(1789年)病のため隠居して家督を就清に譲る。

寛政3年(1791年)7月15日没。享年59。

参考文献

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