福島ケルンとは南極大陸昭和基地の近く南緯69度、東経39度35分[1]にあるケアン(石を積んでできた塔)である。第4次南極地域観測隊越冬隊隊員である福島紳の死を悼むために作られた[2]。1972年の南極条約協議国会議(Antarctic Treaty Consultative Meeting : ATCM[3][4])により、南極史跡記念物英語版 (HSM 2)に指定された[1][5]

2005年12月撮影

由来 編集

福島紳は当時理化学研究所に所属していた地球物理の研究家であり、第4次越冬隊[6]と第3次夏隊に加わり、宇宙線オーロラの観測に携わっていた。第3次夏隊に加わった時点で28歳であった[7]

福島が第4次越冬隊として越冬中の1960年10月7日から11日にかけて、昭和基地周辺にはA級ブリザードが吹いており、折から昭和基地に滞在していたベルギー南極観測隊の隊員が行方不明になったため捜索が行われていた[8]。10日13時30分頃、福島は犬への給餌とカブース(ソリの付いた小屋)の点検のために外出、100メートル行かないうちに同行隊員と離れ離れになった[8][7]。同日17時には最大風速32.5m/s、最大瞬間風速40m/s、視程1メートル以内になり、サイレンを鳴らし照明を点けたものの発見できず、11日からは雪上車で、13日からはベルギー隊の飛行機も使って捜索したが、なお発見できなかった[9]

最終的に遭難から8日後の17日、福島の死亡が認定された[8]。日本の南極観測隊はその後、2021年現在まで死者を出していない[10]。なお、ベルギー隊の隊員は救助されている[9]。また、福島の死体は1968年2月9日に基地から4キロメートル離れた西オングル島の西端で発見された[7]。死体はその場で荼毘に付された[8]新田次郎はこの遭難を『非情のブリザード』として小説化した[10]

ケルンの詳細 編集

ケルンは、福島が消息を絶った、基地から約100メートル離れた地点に建っている[7][9]。外側には、福島と同じ研究室の先輩研究者により、理研からの追悼銘板が2枚取り付けられている[7]。1枚には茅誠司日本学術会議会長、東京大学総長)の揮毫による「福島紳君この地に逝く」という銘文が刻み込まれ、もう1枚には立見辰雄(第4次観測隊長)の弔文を長谷川万吉(福島の京都大学大学院での指導教員)が筆書したものが刻み込まれている。高さは2.5メートルである[11][12]。中には福島が愛用していたパイプと本人の遺骨が入っている[7]

日本の南極観測隊越冬隊は毎年、前の期の越冬隊と同期の夏隊が日本へ向けて出発した後に、越冬成立式を行う。式後は引き続いてケルンにて福島ケルン慰霊祭を行い、冥福を祈るとともに安全を祈願する[8][2]

出典 編集

  1. ^ a b List of Historic Sites and Monuments approved by the ATCM (2012)”. Antarctic Treaty Secretariat (2012年). 2016年6月23日閲覧。
  2. ^ a b 越冬成立・福島ケルン慰霊祭 昭和基地NOW!!”. 国立極地研究所. 2016年6月23日閲覧。
  3. ^ 国際的な取組”. 環境省. 2018年6月15日閲覧。
  4. ^ 大崎満ほか『北海道からみる地球温暖化』岩波書店、2008年、192頁。ISBN 978-4-00-009424-5 
  5. ^ 南極地域の環境の保護に関する法律施行規則(平成九年総理府令第五十三号)”. e-Gov法令検索. 総務省行政管理局 (2019年10月7日). 2020年1月24日閲覧。 “2019年10月9日施行分”
  6. ^ 第4次 日本南極地域観測隊”. 南極OB会. 2016年6月23日閲覧。
  7. ^ a b c d e f #理研
  8. ^ a b c d e 越冬成立式・福島ケルン慰霊祭 昭和基地NOW!!”. 国立極地研究所. 2016年6月23日閲覧。
  9. ^ a b c 故福島隊員慰霊祭”. 国立極地研究所. 2016年6月23日閲覧。
  10. ^ a b 神沼p.56
  11. ^ “故福島隊員の慰霊碑除幕式 昭和基地で”. 読売新聞: p. 11. (1961年1月13日) 
  12. ^ 小玉正弘『もう一つの南極史』(改訂)近代文芸社、2010年3月30日。ISBN 978-4-7733-7719-4 

参考文献 編集

関連項目 編集