福田 三河守(ふくだ みかわのかみ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将織田氏の家臣。

 
福田貞正[1]
時代 戦国時代安土桃山時代
生誕 不詳
死没 文禄2年7月3日(1593年7月30日)[1]
改名 (通称)三河守
戒名 霊雲院殿大忠雄勤大居士[1]
主君 織田信長
氏族 福田氏
特記
事項
卅六飛将[2]の一人。朱旄 (馬印) は「朱丸横ニヌイテ」[2]
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経歴 編集

織田信長の家臣で馬廻とされる。

天正3年5月16日(1575年)、長篠の戦いの際に三河国牛窪城の警固役として、丸毛光兼と共にその任に就く[3]。また、同年8月16日に織田信長が越前国府中龍門寺に出陣 (越前一向一揆) の際に、路地警固として越前国今城を任される。[3][4]

天正5年3月2日(1577年)、織田信長の雑賀攻めの際に、将の一人として根来口より侵攻する[5]

天正10年5月29日(1582年)、織田信長の中国遠征の際に、安土城の二の丸警固役の一人として、その任に就く[6]

その後、史書から姿を消した。

末裔 編集

直系子孫とされる福田家の私記の記述において以下の文面がある[1]

廿六代 文禄二癸巳七月三日

霊雲院殿大忠雄勤大居士 三州牛窪城主 福田三河守貞正

織田信長公幕下、高名士八十三騎内一騎当千之士也 以下略 — 福田家、私記

また、三河守を祀った祠があり、そこで矢に中って戦死したとも言われている。[1]

脚注 編集

  1. ^ a b c d e 神郷町史
  2. ^ a b 『大武鑑内総見公武鑑』(橋本博編集)※総見公武鑑は浅井玄卜(生没年不詳)が1634年に記述したものを大武鑑に載せたものである。
  3. ^ a b 信長公記』 巻八
  4. ^ ※当時今城と呼ばれた城があったのか、今庄城の脱字であるかは不明。
  5. ^ 『信長公記』 巻十
  6. ^ 『信長公記』 巻十五