秦 開(しん かい、生没年不詳)は、中国戦国時代将軍昭王に仕えた。

生涯

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東胡に人質として出されていたがその元で東胡の信頼を得、彼らの風俗や習慣をよく学んだ。燕で昭王が即位すると、東胡の元から脱出し燕に帰国した。

紀元前300年、将軍として東胡と戦いこれを大破。東胡の領域を北に千里退けた[1]

この後は遼水を渡り箕子朝鮮に侵攻し、満潘汗(現在の北朝鮮博川郡)に達しそこを境界とした[2]燕・古朝鮮戦争)。

秦開により現在の遼寧省の境が定められ、遼東半島上谷郡漁陽郡右北平郡遼西郡遼東郡の5郡と燕の長城が造られた[1]。その後の記録は不詳である。

中國文物局は、2000年に遼寧省葫芦島市建昌県西鹸廠郷東大杖子村[3]大凌河戦国墓地群を発掘し、出土した積石木槨墳に副葬された青銅短剣と燕製の陶器を秦開の時代の遺物であると認定した[4]

荊軻と共に燕太子丹暗殺計画に加わった秦舞陽は、秦開の孫である[1]

参考文献

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脚注

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  1. ^ a b c 史記』匈奴列伝:其後燕有賢将秦開,為質於胡,胡甚信之。帰而襲,破走東胡,東胡卻千餘里。与荊軻刺秦王秦舞陽者,開之孫也。
  2. ^ 三国志』魏志 東夷伝の注に引く『魏略』:昔箕子之後朝鮮侯……自称為王……後子孫稍驕虐,燕乃遣将秦開,攻其西方,取地兩千餘里,至満潘汗為界,朝鮮遂弱。
  3. ^ “世上僅存2金柄青銅短剣 都在遼寧” (中国語). 旺報. (2018年5月6日). https://www.chinatimes.com/newspapers/20180506000206-260309 2020年7月19日閲覧。 
  4. ^ 遼寧建昌東大杖子戦国墓地” (中国語) (2015年7月29日). 2020年7月19日閲覧。