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稲森 宗太郎(いなもり そうたろう、1901年明治34年)7月12日 - 1930年(昭和5年)4月15日)は、三重県名張市出身の歌人

人物・来歴編集

1901年明治34年)に、三重県名張市本町の煙草元売捌商・稲森惣兵衛の長男として生れた。三重県立第一中学校(現・三重県立津高等学校)を卒業し、1921年(大正10年)、20歳の時、第一早稲田高等学院政治経済学科入学。学院時代から歌人窪田空穂教授に師事。和歌を作り始めた[1]。早稲田同人誌『自画像』に和歌や小説を発表し、島村民蔵主催の演劇研究会に参加するなど活躍し、その機関誌に戯曲も寄稿していた[1]

早稲田大学国文学科に進んだ宗太郎は、三重県立第一中学校時代の2年先輩の中谷孝雄と、中谷の友人・梶井基次郎からの誘いで、彼らと一緒に同人誌『青空』の創刊メンバーとなった[1][2]。しかし宗太郎は、健康上の理由もあり、短歌一筋に生きることに決めて1号だけで脱退した[3][2]

宗太郎は、窪田空穂を通じて知り合った尾崎一雄山崎剛平ら8人で「八ツ手」という短歌会を結成し、同人誌『茜ぞめ』を創刊した。1928年(昭和3年)3月に早稲田大学国文学科を卒業。この卒業の秋、肺尖(はいせん)カタルと診断されたが、実際は結核であった。

『茜ぞめ』の廃刊後は『地上』に加わり、作品発表を続けるが、1930年(昭和5年)の春ごろ、病状が急に悪化して咽喉もつぶれてしまう。同年4月15日、高田馬場の家で師の窪田空穂、妻・美津子に看取られて死去(28歳没)。法名「国学院硯誉宗泉居士」。同年に刊行した歌集『水枕』を残した[2]

脚注編集

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  1. ^ a b c 「第一部 第一章 同人たち」(柏倉 2010, pp. 9-21)
  2. ^ a b c 「第七章 天に青空、地は泥濘――本郷と目黒にて」(大谷 2002, pp. 137-161)
  3. ^ 野村吉之助(忽那吉之助)「回想 梶井基次郎」(群女国文 1971年4月号、1972年4月号)。別巻 2000, pp. 162-181に所収

参考文献編集

  • 梶井基次郎全集別巻 回想の梶井基次郎』 筑摩書房、2000年9月。ISBN 978-4480704146 
  • 大谷晃一 『評伝 梶井基次郎』 (完本版) 沖積舎、2002年11月。ISBN 978-4806046813  初本(河出書房新社)は1978年3月 NCID BN00241217。新装版は 1984年1月 NCID BN05506997。再・新装版は1989年4月 NCID BN03485353
  • 柏倉康夫 『評伝 梶井基次郎――視ること、それはもうなにかなのだ』 左右社、2010年8月。ISBN 978-4903500300