立川陸軍航空廠
概要
編集主に航空機の補給、整備、修理を目的としていた[1][2]。青梅線西立川駅の北側に位置し、さらに北側には陸軍航空技術研究所、西側には陸軍航空工廠が存在していた[3]。
歴史
編集1933年(昭和8年)、所沢にあった陸軍航空本部補給部所沢支部が立川に移転して陸軍航空本部補給部立川支部となる[4]。1941年(昭和16年)8月、立川陸軍航空廠に改称[5]。
廃止後
編集終戦後、立川飛行場や周辺の軍事施設と共に接収され、米軍立川基地とされた。1977年の基地全面返還後、1983年開園の国営昭和記念公園の一部となっている[6]。昭島市東町にあった技能者養成所は、1949年(昭和24年)当時の昭和町が土地を借り受け総合運動場として整備し、現在は市立昭和公園や昭和中学校、昭和高等学校になっている[7][8]。
廠長
編集脚注
編集- ^ 『立川飛行場物語(中)』けやき出版、1987年、286頁。
- ^ 『この悲しみをくり返さない -立川空襲の記録 第三巻』けやき出版、1982年、324頁。
- ^ 『この悲しみをくり返さない -立川空襲の記録 第三巻』けやき出版、1982年、323頁。
- ^ 彙報 陸軍航空本部所沢支部改称等 『官報』第1978号、1933年8月4日
- ^ 『立川飛行場物語(下)』けやき出版、1987年、13頁。
- ^ “昭和記念公園事務所プロフィール 経緯”. 国土交通省関東地方整備局. 2020年7月14日閲覧。
- ^ 『立川飛行場物語(下)』けやき出版、1987年、16頁。
- ^ “あきしま水と記憶の物語 昭和公園”. 昭島市. 2020年7月14日閲覧。
- ^ a b 外山、森松 1987, 613頁.
- ^ 外山、森松 1987, 1156頁.
参考文献
編集- 立川市文芸同好会編著 『この悲しみをくり返さない -立川空襲の記録 第三巻』 けやき出版、1982年。
- 三田鶴吉著 『立川飛行場物語(中)』 けやき出版、1987年。
- 三田鶴吉著 『立川飛行場物語(下)』 けやき出版、1987年。
- 外山操、森松俊夫 編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。