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章献明粛皇后(しょうけんめいしゅくこうごう、968年2月9日開宝元年1月8日) - 1033年4月30日明道2年3月29日))は、北宋の第3代皇帝真宗の皇后。仁宗の嫡母。姓は劉氏は不詳[1]。劉太后とも称される。

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経歴編集

益州の人。出身身分や生い立ちに関する記録は残っていない。蜀の職人の龔美と結婚し、一緒に京師に入った。容姿が美しく、聡明さを備えていた。襄王趙元侃(のちの真宗)が劉氏に一目惚れし、密かに側室として迎えたが、趙元侃の乳母[2]が密告して父帝の怒りを買い、劉氏は追い出された。

真宗が即位すると再び迎えられ、美人となった。龔美は劉美と改姓され、死去した指揮使劉通の子、劉氏の兄を自称した。侍女の李氏(のちの李宸妃)が趙禎(のちの仁宗)を産むと、真宗の許可で劉氏はこの子を奪って自分の子ということにした。他の后妃が産んだ5人の男子はみな早世していたため、この太子を生んだ「功績」により、大中祥符5年12月(西暦で1013年)に皇后に立てられた。

1022年乾興元年)に真宗が崩じると、幼帝であった仁宗を擁して政治を掌握した。垂簾聴政(垂簾の政)の下で、ついには皇帝の服を着用して太廟へ赴いた。天聖2年(1024年)、「応元崇徳仁寿慈聖」の徽号が贈られた。

明道2年(1033年)に崩じ、「荘献明粛」とされた。慶暦4年(1044年)11月、夫の諡を重ねて「章献明粛」と改諡された。

逸話編集

  • 天聖2年(1024年)に后妃選定の面接が行われた時、仁宗は候補の一人、王氏の美貌に魅了され、妃に封じたいと望んだ。しかし、皇太后劉氏が「あのような妖艶な美貌は夫を誘惑して堕落させる」と言って反対した。結局、王氏は劉美の子と結婚させた。

脚注編集

  1. ^ 一説に(が)とされるが、信頼できる史料上には見られない。
  2. ^ 劉氏。のちの秦国延寿保聖夫人。

伝記資料編集

  • 宋史
  • 『宋会要輯稿』