篠原長重 (前田家臣)

前田利家の家臣

篠原 長重(しのはら ながしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将加賀藩士篠原家の祖。前田利家の正室・まつの実兄[3]通称弥助家紋は左三つ巴。

 
篠原長重
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 享禄2年(1529年
死没 慶長2年(1597年
別名 通称:弥助
戒名 瑞光院殿庭月良白居士
墓所 桃雲寺
主君 前田利家
氏族 尾張篠原氏
父母 父:篠原一計
母:竹野氏?
兄弟 長重まつ前田利家正室)
前田家侍女
養子:一孝[1]長次[2](前田利家三男)
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生涯編集

享禄2年(1529年)、織田氏の家臣・篠原一計の子として誕生した。

長重は尾張国荒子前田利家の家臣となり、知行700石を受けている。元来、前田家と篠原家は姻戚関係にあり[4]、利家とまつの最も身近に伺候していた。

勘六一孝(実家は青木家)を、利家の命で養子とする。利家とまつの間に生まれた利家の七女、千世(春香院)は双子で生まれたので、利家、まつと相談の上で長重が密かに引き取り、15から16歳になるまで養育した[5]。また、まつの知らないところで利家の子を身ごもった侍女を「男子が生まれれば、前田家の将来の火種になる懸念もある」とのことから、まつ了承の上、利家に願い出て妻として迎え、篠原家で生まれたのが第2の養子・織部長次であり[6]、利家がまつ以外の女性の間に最初にもうけた男子である[7]。長次が生まれたことで、利家の命により一孝は別家となり、長次が「篠原本家」を継承することになる。

天正12年(1584年)の末森城の戦いの際、長重は金沢城で留守をし、主君・利家が情勢を知りたいため家臣を金沢城にやり報告を求められるとこれに適切な答えをし、利家を喜ばせている。前田家が成長していく過程での戦功は言うまでもなく、利家やまつ、家中の秘事にも携わった。

慶長2年(1597年)、京都にて没した。東山光大禅寺で葬儀が執り行われている。野田山墓地には、宝永元年(1704年)に建てられた、背後に篠原本家3代にわたる係累に関して1500字ほどの文字が刻まれた戸室石の供養碑「篠原弥助長重 千字碑」が存在する。

逸話編集

長重に5千石の加増の話があった時のことである。「せがれ、勘六(一孝)にやってくださればありがたいのですが」と答え、結局、この5千石は一孝に加増され[8]、以後も篠原家への加増・栄典は一孝に与えられている。肥前国名護屋での一孝配下の人夫に起因する徳川家との「水事件」、禁教令による「高山右近の厚情ある護送」、娘を嫁がせる際に作らせた「嫁坂」など逸話にも枚挙にいとまのない一孝であるが、前田家家臣筆頭[9]として、加賀藩藩政期を通じて一頭地を抜く業績を残せたのも、芳春院の実兄・長重の後ろ盾があってのことなのである[要出典]

脚注編集

  1. ^ 栄錦院殿郷岩道本大居士、17000石。
  2. ^ 裴相院殿傑山良英居士、6000石。
  3. ^ 篠原家伝承、および「袂草」「享保雑誌」『加賀藩史料 第一編』
  4. ^ 『芳春夫人小伝』p.11。
  5. ^ 篠原家伝承、および「重輯雑談」『加賀藩史料 第一編』。
  6. ^ 篠原家伝承、および「第十一巻 列伝第九 篠原長次」『加賀藩史稿 六』。
  7. ^ 事実上、利家の三男にあたる。
  8. ^ 「袂草」「享保雑誌」『加賀藩史料 第一編』。
  9. ^ 当時、大名の家臣レベルでは、全国で12名しか存在しない諸大夫であり、豊臣姓が許されている。

出典編集

  • 石黒文吉『加賀藩史料 第一編』1929–1942年。
  • 近藤磐雄『芳春夫人小伝』1917年。
  • 永山近彰「第三巻 列伝第一 篠原一孝」『加賀藩史稿 二』「第十一巻 列伝第九 篠原長次」『加賀藩史稿 六』1899年。
  • 森田柿園『金澤古蹟志』金沢文化協会、1934年。
  • 加賀藩「諸氏系譜」(巻之十九) 金沢市立玉川図書館 近世史料館[要文献特定詳細情報]
  • 「篠原家由緒書・系図・系譜」 金沢市立玉川図書館 近世史料館[要文献特定詳細情報]
  • 「先祖由緒併一類附帳」(篠原織部) 金沢市立玉川図書館 近世史料館、東京大学史料編纂所[要文献特定詳細情報]
  • 篠原家伝承[要文献特定詳細情報]
  • 野田山墓地 篠原弥助長重供養碑「千字碑」[要文献特定詳細情報]