篠原長次

日本の安土桃山時代~江戸時代前期の武士。加賀藩初代藩主前田利家の子で、同藩重臣篠原長重養子。篠原織部家初代当主(篠原本家2代当主)

篠原 長次(しのはら ながつぐ)は、江戸時代初期の加賀藩士。石高6000石。家紋は左三つ巴。菩提寺桃雲寺

 
篠原 長次
時代 安土桃山時代 - 江戸時代
生誕 天正17年(1589年
死没 慶安2年(1649年
改名 彦四郎、篠原長次
別名 織部
戒名 裴相院殿傑山良英居士
墓所 野田山
金沢藩
父母 父:前田利家、母:前田家侍女(詳細不明)
養父:篠原弥助長重
兄弟 篠原一孝篠原長次
奥村長兵衛の娘(陽徳院殿乾屋利貞大姉)
長経長良
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1589年、前田利家と前田家侍女の間に第三男として生まれた。大坂の陣では紺旗隊の大将として勇猛果敢に戦い、真田軍の首級をあげた。その後、同僚との諍いが原因で一時田ノ島に配流されている最中、紀州藩主の徳川頼宣が6000石で迎えようとしたが、長次は頼宣の誘いを断った。

生涯 編集

篠原長次は、篠原弥助長重の第2の養子であり、篠原出羽守一孝(加賀藩家老・執政)の義弟にあたるが、実際は利長[注 1]利政[注 1]に次ぐ前田利家の三男[注 2]である[1]。先に、双子で生まれた利家の七女千世[注 3]の一方の子[注 4]を利家、まつ[注 5]と相談の上、密かに引取り育てた篠原弥助長重は、まつの知らないところで利家の子を身ごもった侍女を「男子が生まれれば、将来の火種になる懸念もある」とのことから、再度三者相談の上、名目上妻として迎え、篠原家で生まれたのが篠原織部長次である。長次が生まれたことで、利家の命により一孝は別家(篠原出羽守家)となり、長次が「篠原本家」[注 6]を継承することになる。ちなみに、明治になって乃木希典が金沢で止宿していたのは、本家篠原邸(当主は10代篠原忠篤)の離れであった[2]

大坂の陣では紺旗隊の大将として勇猛果敢に戦い、真田軍の首級をあげている。前田利常主催の「利家三十三回忌」では奉行として桃雲寺で法事を差配したが、同僚との諍いが原因で、一時田ノ島に配流されている。長次の配流を聞き知った紀州藩徳川頼宣は6000石で迎えようとしたが、長次は「御厚志、感激に堪えませんが、たとえ落ちぶれようと父母の国を去ろうとは思いません」と言って、頼宣の誘いを断っている。長次の志にいたく感心した利常は、結局3か月間で蟄居を解いた。4代前田光高の代になって、徳川家康の原廟(現在の尾崎神社)が金沢に建造され、利常はこれを参拝した帰路、長次邸に寄った[3]。長次は、名誉なこととして大変、感激したと伝えられている。

篠原長次は才能・見識に恵まれ、実直な性格と生まれ素性もあいまって、前田利常からは「兄弟」として遇された。なお、江戸での人質生活を送る芳春院は、村井長次宛に出した手紙の中で、篠原長次について次のように語っている[4]

おりべ[注 7]のこと、良い縁談でもあれば、でわ[注 8]と相談して世話をしてやってください。いくらでも取り立ててやってください。ひもじ[注 9]へもわたしからよく言っておきます — 芳春院、芳春院まつの書状

系譜 編集

篠原家(本家) 編集

  • 初代:篠原弥助長重
  • 2代 :篠原長次 6000石(室:奥村氏)
    • 長次の次男の長良(大学)は、1000石を分けられ分家となる。家紋は左三つ外巴。菩提寺、桃雲寺。
  • 3代 :篠原長経 5000石(室:直之系前田氏)
    • 長経の次男の輝豊(刑部 長忠)は、1000石を分けられ分家となる。家紋は角の内左三つ巴。菩提寺、桃雲寺。
  • 4代 :篠原長栄(長賢) 4000石(室:長種系前田氏)
  • 5代 :篠原幸昭(室:直之系前田氏)
  • 6代 :篠原保之(室:長種系前田氏)
  • 7代 :篠原得寿(室:村井氏)
  • 8代 :篠原忠貞(室:一孝系篠原氏)
  • 9代 :篠原忠意(室:成瀬氏)
  • 10代:篠原忠篤(室:西尾氏)

ここで明治時代になる。

篠原出羽守家(別家) 編集

別家の篠原出羽守家(一孝系篠原家。家紋は左三つ巴、のち左二つ巴)は、祖を弥助長重としながらも初代を一孝とする。高野山にある前田利長の五輪塔(三番碑)背後には「芳春院様内」とされる6基の小五輪塔が存在するが、高野山天徳院の説明によると、そのうち5基は一孝(栄錦院殿郷岩道本大居士)と長男である篠原主膳一由(貞秀)と夫人(前田利家の娘の保智)、次男の篠原出羽守一次(隼人、天澄院殿惣月英寒大居士)夫妻のものであり、その中には芳春院と玉泉院(利長の正室)が施主となっているものもある、ということである。一孝には男子が4人いたが、三男の重一(監物)以外はみな早世し、家は断絶した。長男の貞秀は松平忠直に乱暴を働き配流され、代わって家督を継いだ次男の出羽守一次(11250石)の家も自身と子の岩松が早世したため、「加賀八家」制度ができる前に断絶した。結局、一孝の子孫で続いたのは三男の重一(監物)の家だけとなった。幕末に東奔西走して藩政を担った家老・篠原一貞版籍奉還後は前田慶寧藩知事の下で大参事となる)は、この家の出身である。

藩政期、篠原家は、本家・別家は「加賀八家」同格の家として、本家の2つの分家と合わせ、4家で前田家に仕えた。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ a b 母は芳春院
  2. ^ 母は前田家侍女。詳細不明。
  3. ^ 春香院のこと。母は芳春院。
  4. ^ 千世そのものかは不明。
  5. ^ 芳春院のこと。実父は古嶽周久庵こと篠原竹阿弥
  6. ^ 家紋は左三つ巴。菩提寺、桃雲寺。
  7. ^ 織部。ここでは篠原長次のことを示す。
  8. ^ 出羽。ここでは篠原一孝のことを示す。
  9. ^ 肥文字。ここでは前田利長のことを示す。

出典 編集

  1. ^ 永山近彰「列伝第九 篠原長次」『加賀藩史稿 六』 第十一巻、尊経閣、1889年。 
  2. ^ 中島正之「高林寺」『百萬石の旅』中尾月英、1994年2月、52-53頁。 
  3. ^ 森田平次『金澤古蹟志』 巻七、金沢文化協会、1934年。 
  4. ^ 芳春院『芳春院まつの書状 : その消息にみる人物像』前田土佐守家資料館、2012年4月、12頁。 

参考文献 編集

  • 篠原家伝承[要文献特定詳細情報]
  • 前田利家菩提所、桃雲寺ー篠原家祭壇の位牌[要文献特定詳細情報]
  • 野田山墓地 篠原弥助長重供養碑「篠原長重 千字碑」[要文献特定詳細情報] - 背面に1500字ほどの文字が刻まれている。これによると、長重が69歳、長次が61歳、長経が66歳で死亡している。
  • 「御先祖並び御一門之法名(宝円寺)」(篠原本家所蔵)[要文献特定詳細情報] - 芳春院の父母の戒名も書かれている。
  • 「加賀藩-諸氏系譜」(巻之十九)金沢市立玉川図書館近世史料館[要文献特定詳細情報]
  • 「篠原家由緒書、系図、系譜」(別家・一孝系)金沢市立玉川図書館近世史料館[要文献特定詳細情報]
  • 「篠原家由緒書、系図、系譜」(本家・長次系)金沢市立玉川図書館近世史料館[要文献特定詳細情報]
  • 『加賀藩史料』石黒文吉、1929年-1942年。
  • 「第三巻 列伝第一 篠原一孝『加賀藩史稿二』」「第十一巻 列伝第九 篠原長次『加賀藩史稿六』」永山近影、1899年。
  • 『金沢古蹟志』森田柿園、金沢文化協会、1934年。
  • 『石川県史』(第弐編)石川県編、1938年-1939年。
  • 『古兵談』関屋政春、石川県立図書館。
  • 『図録 芳春院 まつの書状』前田土佐守家資料館、2012年。
  • 『百萬石の旅』中島正之、中尾月英、1994年。