米良 祐次(めら すけつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将日向伊東氏の家臣。日向国臼杵郡門川城主。

 
米良 祐次
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正6年(1578年
別名 重郷、四郎右衛門尉
主君 伊東義祐
氏族 米良氏
父母 父:米良祐通
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米良氏肥後菊池氏の末裔とされる。

門川城は伊東領の北辺を担う日向三城(門川城・塩見城日知屋城)のうち、最北端に位置する。門川より北は伊東氏と敵対する土持氏の領地であり、このためか飫肥真幸院の合戦に従軍した記録はない。

元亀3年(1572年)、木崎原の戦いに敗れた伊東氏が次第に島津氏に対し劣勢になると、その隙をついた土持親成に攻められるようになる。三城は合力して土持氏を撃退したものの、天正5年(1577年)伊東氏は一時的に豊後国退去し、島津氏の軍門に下らざるを得なくなった。

しかし、三城では島津氏を打ち破るため、豊後の大友氏の下に身を寄せた伊東義祐と密かに連絡を取り、大友氏を盟主と仰いだ日向侵攻を要請する。これを受けて大友義統が大軍を擁して日向入りし、ここに伊東の都於郡復帰も成就するかに思われたが、天正6年(1578年)の耳川の戦いにおいて大友氏は島津義久に敗北を喫し、従軍していた日向三城の城主達(米良祐次、塩見城主・右松四郎左衛門尉、日知屋城主・福永氏本)も悉く戦死した。