粟屋 元豊(あわや もととよ/もととみ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将毛利氏の家臣。後に長州藩士。父は内藤元盛

 
粟屋元豊
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 不明
死没 元和元年10月19日1615年12月9日
官位 図書助
主君 毛利輝元
氏族 内藤氏粟屋氏
父母 父:内藤元盛
母:綾木大方内藤隆春の娘)
養父:粟屋孝春
兄弟 内藤元珍元豊、女(福原元房室)、
女(小川玄広室)
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略歴

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内藤元盛の次男として生まれ、叔父・粟屋孝春の名跡を継承した。

父・元盛(佐野道可)が大坂の陣にて独断で[1]、豊臣方について大坂城に入城し、落城後に捕らえられ切腹させられた佐野道可事件で、徳川氏により京都に召喚される。この時、兄・元珍と同様に弁明することが出来なかったものの、大坂城に入城しなかったため、許されて帰国した。

帰国後、吉川広家福原広俊らの進言を受けた毛利輝元に切腹を命じられ、元和元年(1615年)10月19日に美祢郡岩永で切腹した。なお、当時の大目付であった柳生宗矩が元豊の伯父である宍戸元続都野惣右衛門の両名に宛てた手紙には、元珍と元豊の切腹を悼む内容が書かれていたという。

脚注

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  1. ^ 主家の意向を受けたとも。

参考文献

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