紀作良
紀 作良(き の さくら/つくら)は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族。官位は従四位下・大学頭。
時代 | 奈良時代 - 平安時代初期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 延暦18年1月16日(799年2月25日) |
官位 | 従四位下大学頭 |
主君 | 光仁天皇→桓武天皇 |
氏族 | 紀氏 |
経歴
編集若くして大学で学び、経書と史書をよく学んだ[1]。少判事から式部大丞を経て、宝亀9年(778年)従五位下に叙せられる。のち、光仁朝において民部少輔・丹波介を歴任。天応元年(781年)の光仁上皇崩御の際には御装束司を務めた。
桓武朝でも、天応2年(782年)尾張守次いで伊勢守と引き続き地方官を務める。延暦3年(784年)右少弁として京官に復すと、延暦4年(785年)大蔵大輔・斎宮長官・兵部大輔、延暦5年(786年)大学頭、延暦6年(787年)治部大輔と短期間に多数の官職を務める。またこの間、延暦4年(785年)従五位上に叙せられている。
延暦7年(788年)上野守に任ぜられると、のち丹波守と桓武朝半ばは再び地方官を務め、この間の延暦8年(789年)正五位下、延暦16年(797年)正五位上と昇進した。のち、従四位下・大学頭に至る。延暦18年(799年)正月16日卒去。最終官位は大学頭従四位下。
人物
編集飾り気がなく真面目な性格で、官人に少しでも過ちがあれば、容赦なく必ず法を以て処分したために、部下に憎まれた。早朝から日暮れまで公務に精励して、老齢になっても怠ることがなかったという[1]。
官歴
編集『六国史』による。
- 時期不詳:少判事。式部大丞。正六位上
- 宝亀9年(778年) 正月16日:従五位下
- 宝亀10年(779年) 9月28日:民部少輔
- 宝亀11年(780年) 3月17日:丹波介
- 天応元年(781年) 12月23日:御装束司(光仁上皇崩御)
- 天応2年(782年) 2月7日:尾張守。6月20日:伊勢守
- 延暦3年(784年) 4月30日:右少弁
- 延暦4年(785年) 正月7日:従五位上。正月27日:大蔵大輔。4月23日:斎宮長官。7月6日:兵部大輔
- 延暦5年(786年) 正月28日:大学頭。9月29日:河内和泉班田次官
- 延暦6年(787年) 3月22日:治部大輔
- 延暦7年(788年) 3月21日:上野守
- 延暦8年(789年) 正月6日:正五位下
- 時期不詳:丹波守
- 延暦16年(797年) 正月7日:正五位上
- 時期不詳:従四位下。大学頭
- 延暦18年(799年) 正月16日:卒去(大学頭従四位下)