結城 朝勝(ゆうき ともかつ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将

 
結城朝勝
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄12年(1569年
死没 寛永5年4月3日1628年5月6日
改名 宇都宮七郎(幼名)、結城朝勝、宇都宮宗安
別名 晴綱[1]、桂山宗月(法号)
主君 宇都宮国綱佐竹義宣
氏族 下野宇都宮氏結城氏
父母 宇都宮広綱南呂院
結城晴朝
兄弟 宇都宮国綱朝勝芳賀高武
宇都宮光綱室、宇都宮光綱
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生涯編集

永禄12年(1569年)、下野国大名宇都宮広綱の次男として誕生。天正5年(1577年)10月、水谷勝俊の交渉によって結城晴朝の養子となる。これによって宇都宮氏結城氏、そして佐竹氏は3者同盟を結んで北条氏政に対抗した。天正6年(1578年)、後北条氏常陸国に侵攻した際(小川台合戦)、3者連合軍は力を合わせてこれを撃退した。このとき、朝勝は初陣している。

しかし、天正18年(1590年)、結城秀康が結城氏の養嗣子として入嗣すると、朝勝は相続権が無くなって実家の宇都宮氏へと戻った。ただし、近年の異説として天正15年(1587年)の段階で既に朝勝が結城氏の家督を継いでいたものの、晴朝が秀康を養子とするために朝勝を結城氏当主の座から退かせたとする説も存在する[2]

その後は長兄・宇都宮国綱に従い、文禄の役では肥前国名護屋城に参陣したが、慶長2年(1597年)に宇都宮氏が改易されると、母方の従兄弟にあたる佐竹義宣の下へ寄食した。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると上杉景勝に与して白河城に入り、景勝と義宣の間を取り持つ役目を果たしたり、宇都宮氏の旧臣に下野で挙兵するように促すなどしている[3]。佐竹氏が出羽国久保田藩に減移封されるとそれに従った。大坂の陣には豊臣方として参戦するも生き延びた。戦後は宇都宮姓に復し、宇都宮恵斎宗安(そうあん)と名乗った。晩年は神官となったという。

寛永5年(1628年)4月3日、死去。享年60。朝勝(宗安)には男子が無く、真壁重幹[4]の次男を娘婿に迎えて養子とし、宇都宮光綱(みつつな)と名乗らせ、宇都宮氏の家名を残した。この宇都宮氏はそのまま久保田藩佐竹氏に仕えていくこととなる(久保田藩#引渡二番座を参照)。

系譜編集

脚注編集

  1. ^ 日田の名代官塩谷正義に仕えた宇都宮正蔵(良綱)が、下野国塩谷郡(現矢板市)にある長興寺に納めた由緒書(館ノ川植木真一家所蔵古文書 『ふるさと矢板 会報集(第1号~第20号)』矢板市文化財愛護協会 2001年6月収録 平成四年五月『ふるさと矢板』第八号 P4掲載)による。宇都宮正蔵は、晴綱(結城朝勝)から数えて11代目の子孫になるという。
  2. ^ 天正15年(1587年)前後に発給された結城氏当主の文書に結城晴朝とは明らかに別人の花押が記されたものが存在する事が確認されたこと、加えて同時期晴朝が御台所に依頼を受けた(従来は晴朝の正室と考えられていたが、晴朝正室の水谷正村の娘(山川氏の娘とする説もある)は既に病没していた事が明らかになった)旨の文書が発見された事から晴朝とは別の「結城氏当主」が存在した可能性が浮上してきた。この場合の「当主」とは結城朝勝であると考えられる(市村高男 「当主の居城と前当主(または継嗣)の居城」(千葉城郭研究会 編 『城郭と中世の東国』(2005年 高志書院 ISBN 4862150063)参照)。
  3. ^ 近年、関ヶ原の合戦当時の朝勝の兄弟の動向が明らかにされつつあり、弟の芳賀高武は石田三成に仕えていた一方で、長兄の宇都宮国綱が家康に仕えていたことを示す史料が確認されている。兄弟間で東西に分かれた上に国綱に期待されていた宇都宮氏旧臣の東軍参加が失敗に終わったことで宇都宮氏の家名再興は実現できなかったと考えられている(江田郁夫「改易後の国綱周辺」江田 編著『中世宇都宮氏 一族の展開と信仰・文芸』<戎光祥中世史論集 第9巻>戎光祥出版、2020年1月 ISBN 978-4-86403-334-3 P138-162.参照)。
  4. ^ しげもと、真壁氏幹の甥。