耶律勃古哲
耶律勃古哲(やりつ ぼつこてつ、生年不詳 - 990年)は、遼(契丹)の軍人。字は蒲奴隠。六院部夷離菫の耶律蒲古只の末裔。
経歴
編集保寧年間、天徳軍節度使となり、南京侍衛馬歩軍都指揮使に転じた。党項羌の阿理撒米・僕里鼈米を攻撃して平定し、南院大王となった。
聖宗が即位し、皇太后が称制すると、勃古哲はいくつかの事柄を上疏して聞き入れられ、その日のうちに山西路諸州事を兼領した。統和4年(986年)、北宋の曹彬らが燕雲十六州奪回のために侵攻してくると、勃古哲は宋軍を討って奮戦し、輸忠保節致主功臣の称号を賜り、山西五州を領知した。
ときに勃古哲は法を曲げて民を虐げたと告発を受け、調べを受けてそうした実態があったため、杖罰を受けた。統和8年(990年)、南京統軍使となり、死去した。
子の耶律爻里は、詳穏の官に上った。
伝記資料
編集- 『遼史』巻82 列伝第12