耶律撻不也
経歴
編集季父房の末裔。林牙の耶律高家の子として生まれた。清寧年間、牌印郎君に補任され、永興宮使に累進した。清寧9年(1063年)、耶律重元の乱の鎮圧にあたり、功績により知点検司事となった。平乱功臣の称号を賜り、懐徳軍節度使として出向した。咸雍5年(1069年)、遙輦剋に転じた。
太康3年(1077年)、北院宣徽使に任じられた。耶律乙辛が皇太子耶律濬を害そうとしていたため、撻不也は耶律乙辛や蕭得里特・蕭十三らを殺害しようとした。耶律乙辛はこれを察知して、撻不也が道宗の廃立を計画していると仲間に誣告させたため、撻不也は処刑された。
乾統年間、漆水郡王に追封され、画像が宜福殿に飾られた。
伝記資料
編集- 『遼史』巻99 列伝第29