耶律 朮烈(やりつ じゅつれつ)は、北遼の第4代皇帝。興宗の子の秦越王耶律阿璉中国語版の子[1]。北遼の初代皇帝の天錫帝の後継者。

耶律朮烈
北遼
第4代皇帝
王朝 北遼
在位期間 1123年
都城 南京
生年 不詳
没年 神暦元年(1123年11月
耶律阿璉中国語版[1]
年号 神暦元年 : 1123年

生涯

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1122年に天錫帝が没すると、後継者は秦王耶律定天祚帝の五男)がその後を継いだ。その秦王が亡くなると、その同母兄である梁王耶律雅里(天祚帝の次男)が継いだ。

1123年10月になり、梁王耶律雅里が31歳で没すると、蕭徳烈ら北遼の大臣たちは朮烈を擁立した。しかし、11月に南京が包囲され、同時に内紛もあって朮烈は家臣たちによって弑された。このために、北遼は滅亡を迎えることになった。

宗室

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后妃

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  • 不詳

子女

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  • 不詳

脚注

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  1. ^ a b 陳邦瞻宋史紀事本末』によると、興宗の孫と記されている。

伝記資料

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  • 遼史』巻二十九、皇子表