耶律 朱哥(やりつ ジュゲ、生没年不詳)は、モンゴル帝国に仕えた契丹人の一人。

概要 編集

ジュゲは宗室の末裔で、モンゴル帝国草創期の功臣であるトガン(禿花)の息子であった。

ジュゲは父が亡くなるとその地位を継承し、引き続き陝西四川方面への出兵に尽力した。この頃、モンゴル帝国ではモンゴル正規兵と被征服民からなる混成軍団を「タンマチ(タマ軍)」として国境地帯に派遣する政策を始めており、ジュゲの率いる軍団もその一つであったとみられる[1]。また、ジュゲの軍団は甘粛・陝西地方を取り仕切るコデン太子の勢力に属しており、テゲ・コルチ劉黒馬らとともにコデンの命を受けたことが「草堂寺闊端太子令旨碑」に記されている[2][3]

第一次南宋侵攻が始まると四川方面軍の指揮官としてタガイ・ガンポが抜擢され、ジュゲもタガイ・ガンポとともに四川方面に侵攻したが、軍中で亡くなった[4]。ジュゲに関する『元史』の記述は非常に短いが、一方でジュゲが当時華北で勢力を急速に拡大していた全真教と密接な関係にあったことがしばしば記録されている。例えば、全真教が澇河の灌漑整備事業を行った際にはジュゲがこの事業に対して褒賞している[5]

子孫 編集

ジュゲが死去した後は息子の宝童が跡を継いだが病によって任務に耐えず、ジュゲの弟のバイジュ(買住)が代わって総領の地位についた。バイジュはモンケに対して「今西川下流の諸城を平定するに当たり、まず根本の地たる成都を攻略すべきです。私自身を成都攻略に行かせるようご命令ください」と進言し、この進言を受け入れたモンケによって成都攻略に派遣された。ところが、 嘉定府攻略中にバイジュもまた兄に続いて早世してしまい、その息子の忽林帯と百家奴が跡を継いだ。ジュゲから百家奴に至るまでの歴代総領は、開祖のトガンに与えられた「太傅・総領イェケ=ノヤン(也可那延)」の称号を帯びていた[6]

このように、ジュゲの死後は弟のバイジュの家系がトガン一族の代表として活躍していたが、クビライの治世後半頃からジュゲの子の宝童の子のマングタイ(忙古帯)が有力武将として浮上し、主に西南方面 (雲南ビルマ) での戦闘に活躍するようになった。

脚注 編集

  1. ^ 松田1996,171頁
  2. ^ 杉山2004,428-434頁
  3. ^ 高橋2011,193-194頁
  4. ^ 『元史』巻149列伝36耶律禿花伝,「子朱哥嗣、仍統劉黒馬等七万戸、与都元帥塔海紺卜同征四川、卒于軍」
  5. ^ 井黒2013,169-170頁
  6. ^ 『元史』巻149列伝36耶律禿花伝,「子宝童嗣、以疾不任事。朱哥弟買住嗣、而以宝童充随路新軍総管。買住言於憲宗曰『今欲略定西川下流諸城、当先定成都、以為根本、臣請往相其地』。帝従之、遂率諸軍往成都、攻嘉定、未下而卒。子忽林帯嗣、総諸軍、立成都府、卒于軍。以兄百家奴嗣。自朱哥至百家奴、並襲太傅・総領也可那延」

参考文献 編集

  • 井黒忍『分水と支配 金・モンゴル時代華北の水利と農業』早稲田大学出版部、2013年
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 高橋文治『モンゴル時代道教文書の研究』汲古書院、2011年
  • 松田孝一「宋元軍制史上の探馬赤(タンマチ)問題 」『宋元時代史の基本問題』汲古書院、1996年