船橋 随庵(ふなばし ずいあん、寛政7年(1795年)-明治5年4月9日1872年5月15日))は、幕末関宿藩士学者。名は愨信(はるのぶ)[1]、通称は亘[1]・伝太夫[1]、号は随庵[1]。船橋愨統の子。

船橋氏は近江国出身で随庵は関宿藩久世氏に仕えてから6代目にあたる。随庵は150石をもって久世広周に仕え、用人から中老に至った。随庵は農政・治水について詳しく、利根川の洪水防止と農業用水確保のために新たな水路「関宿落」の工事を企画し、嘉永2年(1849年)に関宿城下から筵打新田(現在の茨城県坂東市)にかけての水路工事を手掛け、翌年に完成させた。その功績によって禄20石を与えられた。また、『古今田制通考』『助郷考』などの著作を著して助郷批判や農兵制導入などを唱え、また江戸幕府に対して利根川治水に関する意見書などを著した。安政3年(1858年)隠居。安政6年3月、「大島禁地」開墾をめぐる騒動の責任を問われ、投獄される。自身の潔白と藩政の改革を、自身の血液を使ってしたため訴えた「獄中血書」が,千葉県立関宿城博物館に収蔵されている。文久2年(1862年)には随庵の提案に基づく農兵制が関宿藩に導入された。慶応4年(1868年)4月の久世騒動に際しては、隠居の身ではあったが、対策会議に参加し、新政府側に協力すべき立場を取った。維新後は明治政府からの出仕要請をうけるが、高齢を理由に固辞、農政や治水にかんする著述に尽力した。墓は千葉県野田市宗英寺

脚注 編集

参考文献 編集

  • 鏑木行廣「船橋随庵」『千葉大百科事典』(千葉日報社、1982年)
  • 中村勝「船橋随庵」(『三百藩家臣人名事典 2』(新人物往来社、1988年) ISBN 978-4-404-01490-0
  • 森田保「船橋随庵」(『幕末維新人名事典』(新人物往来社、1994年) ISBN 978-4-404-02063-5