花山院長親母
概要
編集出自[1]及び本名は明らかでない。内大臣花山院家賢の室で、長賢・長親(耕雲)・簡中元要を生んだ。北朝で失脚した夫とともに南朝へ移り、正平後期以降の南朝歌壇で活躍。後年出家して春山と号する。
『新葉和歌集』には女流歌人として最多の26首が入集した。同集の詞書によれば、家賢邸で催された百首歌に詠進(恋一・688など)、正平22年/貞治6年(1367年)家賢一周忌には後村上天皇と贈答を交わし(哀傷・1378)、文中3年/応安7年(1374年)入明した元要との離別を惜しんでいる(離別・531)。歌風はどれも二条派で、本歌取りや掛詞などの修辞には優れているが、実感に即した歌が弱く、独特の情操を見出しにくいと評される。天授元年/永和元年(1375年)頃の『住吉社三百六十番歌合』にも出詠し、50歳になった心境を述懐した。元中3年/至徳3年(1386年)長親・師兼とともに『法門四十七首和歌』に詠進しているが、以後の消息は不明である。
脚注
編集参考
編集- 土佐喜美子 「右近大将長親母(「勅撰集の女流歌人」第22回)」(『學苑』第13巻第11号 昭和女子大学光葉会、1951年12月、NCID AN00038441)
- 井上宗雄 「新葉集の女流歌人」(久松潜一編 『日本女流文学史 古代・中世篇』 同文書院、1969年、NCID BN01844397)
- 小木喬 『新葉和歌集―本文と研究』 笠間書院、1984年、ISBN 9784305101815
- 久保木秀夫 「宮内庁書陵部蔵『法門四十七首和歌』翻刻と解題 ―南朝末期歌壇に関する新出資料―」(『中世近世の禁裏の蔵書と古典学の研究 研究調査報告2』 同研究プロジェクト、2008年、NCID BA8183045X)