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苻 健(ふ けん)は、五胡十六国時代前秦の初代皇帝。元の名は蒲健といった。初名は羆。字は建業。略陽郡臨渭県(現在の甘粛省天水市秦安県の東南)出身の族で、苻洪の三男。母は姜氏。弟に苻雄がいる。

景明帝 苻健
前秦
初代皇帝
王朝 前秦
在位期間 351年 - 355年
姓・諱 苻健
建業
諡号 明皇帝→景明皇帝
廟号 世宗→高祖
生年 建武元年(317年
没年 皇始5年6月15日
355年7月10日
苻洪(第3子)
姜氏
后妃 明徳皇后
年号 皇始:351年 - 355年

目次

略歴編集

父の時代編集

父の蒲洪(苻洪)は後趙に仕え、氐族を束ねて枋頭(現在の河南省鶴壁市浚県)に勢力を築いていた。

蒲健は成長すると勇敢となり、特に弓馬の術に秀でた。施しを好んで人とよく応対したので、後趙君主石虎やその子らから寵愛を受けた。

石虎は始め蒲氏一族を礼遇していたが、やがてその勢力が強大である事を忌むようになった。その為、蒲健の諸兄は密かに殺害されてしまったが、蒲健自身は危害を加えられなかった。

349年5月、蒲洪は都督職を解任された事に激怒し、枋頭へ戻って東晋へ帰順した。だが、蒲健はに留められたままであった。12月、機を見て関所を突破すると、父のいる枋頭へ逃亡した。

350年1月、蒲健は東晋朝廷より仮節・右将軍・監河北征討前鋒諸軍事に任じられ、襄国公に封じられた。またこの時期、父の蒲洪は大都督大将軍大単于・三秦王を自称し、自らの姓を苻に改めた。これにより、蒲健もまた苻健と名を改めた。

3月、軍師将軍麻秋は密かに苻洪の軍を奪う事を目論み、宴会の席で苻洪の酒に毒を盛った。目論み通り苻洪は毒を飲んでしまい倒れたが、これに気づいた苻健はすぐさま麻秋を捕らえて処刑した。苻洪は死に臨んで苻健へ「我が以前入関しなかったのは、先に中原を安定させるべきであると考えたからだ。我は今、秋の如き豎子により不幸に遭ってしまったが、中原の平定は汝ら兄弟ではどうにもならんだろう。関中は天形勝であるから、我が死後はすぐに西へ向かうのだ」と遺言し、間もなく亡くなった。

長安を攻略編集

苻健は後を継ぐと、三秦王・大都督・大将軍の称号を廃し、東晋の官爵を称した。また、叔父の苻安建康に派遣して父のを告げ、東晋朝廷の命を請うた。同時期、後趙君主石祗からも都督河南諸軍事・鎮南大将軍・開府儀同三司・兗州に任じられ、略陽郡公に封じられた。

8月、京兆豪族杜洪長安に拠って東晋の征北将軍・雍州刺史を自称すると、漢人胡人問わず多くの者がこれに帰順した。苻健は関中の平定を目論んでいたが、杜洪に気取られる事を危惧し、偽って後趙からの官爵を受けた。この時、趙倶河内郡太守に任じて温県を守らせ、牛夷を安集将軍に任じて懐県を守らせた。また、枋頭にある宮殿を営繕し、民には偽りの農業を行わせて西へ向かう意志のないことを示した。実際に種が蒔かれていない事を知る者がいれば殺害し、情報の漏洩を防いだ。

やがて東晋の征西大将軍・都督関中諸軍事・雍州刺史を自称すると、賈玄碩を左長史に、梁安を長史に、段純を左司馬に、辛牢を右司馬に、京兆出身の王魚程肱胡文らを軍咨祭酒に任じた。さらに、その衆を全て率いて西へ進み、魚遵を前鋒とした。盟津に到達すると、浮橋を造って河を渡った。弟の輔国将軍苻雄には歩騎5千を与えて潼関に入らせ、兄の子揚武将軍苻菁には軹関より河東に入らせた。出発する際、苻健は苻菁の手をとると「もし勝利出来なくば、汝は河北で死に、我は河南で死に、再び相見える事は無いであろう」と告げた。軍を発すると橋を焼き払い、自ら大軍を率いて苻雄に続いた。杜洪はこれを知ると、苻健へ書を与えて侮慢し、さらに征虜将軍張先(十六国春秋では張光と記される)に3千の兵を与えて潼関の北へ派遣して苻雄を防がせた。苻雄はこれを攻めて大勝し、張先を長安へ逃げ戻らせた。苻健はこの後に杜洪へ書を送り、併せて名馬・珍宝を贈ると、長安に赴いて尊号を捧げたいと請うた。杜洪は「貢物は重く、その言は甘い。これは我を油断させようとしているのだ」と述べ、関中の衆を総動員してこれを迎撃した。弟の杜郁は降伏を勧めるも聞き入れなかったので、自らの軍ごと苻健へ降伏した。苻健は筮を行うと、遇泰の臨と出た。これに苻健は「これこそ『小往き大来り、吉にして亨る』というものだ。昔、東に往くも小であったが、今西に還るは大という。 吉はやがて大ならん!」と宣言した。この時、流れ星が河西より多数現れたので、占者は民衆が西へ帰ろうとする事の象徴であるとした。

次いで苻健は赤水に進むと、苻雄に命じて渭北を攻略させた。氐族酋長毛受高陵に、徐磋好畤に、羌族酋長白犢は黄白において各々数万の兵を擁していたが、苻雄が到来すると、彼らはみな杜洪からの使者を斬り殺し、子息を人質にして苻健へ降伏した。さらに、苻菁・魚遵の侵攻により、城砦は次々と降伏した。杜洪は大いに恐れ、長安を固く守った。9月、苻菁が渭北に進むと、杜洪は再び張先に迎え撃たせたが、苻雄・苻菁は陰盤においてこれを撃破し、張先を捕らえた。さらに諸城を攻略し、その尽くを降伏させた。これにより、三輔の郡県は尽くが苻健の傘下に入った。

10月、進軍を続けて長安に逼迫すると、杜洪は司竹へ逃亡した。11月、長安に入城を果たすとこれを都とした。民の心が東晋に帰していた事から、参軍杜山伯を建康に派遣して戦勝を報告させ、さらに東晋の征西大将軍桓温とも誼を通じた。これにより、秦州・雍州の漢人・胡人はみな苻健に帰属した。ただ後趙の涼州刺史石寧だけが上邽に拠って対抗したので、苻健は苻雄にこれを討たせた。12月、苻雄は石寧を破り、その首級を挙げた。

大秦建国編集

351年1月、左長史・軍師将軍賈玄碩らは上表し、劉備が漢中王を称した故事に倣い、苻健へ侍中・都督関中諸軍事[1]・大将軍・大単于・秦王を称するよう勧めると、苻健は怒って「我がどうして秦王の称号に堪えられようか!それに、まだ晋の使者もここにいるのだぞ。我の官爵については、汝らの知るところではない[2]」と言った。だがその一方、梁安を密使として賈玄碩らの下へ向かわせ、尊号を捧げさせるよう遠回しに伝えさせた。この意を受け、百官は苻健へ尊号を奉ったが、苻健はこれを再三に渡り辞退し、その後天王号を称する事とした。こうして天王・大単于の位に即くと、国号を大秦と定めて東晋から自立し、領内の死罪以下に大赦を下し、皇始と元号を定めた(前秦の成立)。また、宗廟社稷を営繕して長安に百官を配置し、父の苻洪を武惠皇帝と追尊して廟号を太祖とし、妻の強氏を天王后に立て、子の苻萇を天王太子に立て、苻靚を平原公に、苻生を淮南公に、苻覿を長楽公に、苻方を高陽公に、苻碩を北平公に、苻騰を淮陽公に、苻柳を晋公に、苻桐を汝南公に、苻廋を魏公に、苻武を燕公に、苻幼を趙公に封じた。苻雄を都督中外諸軍事・丞相・領車騎大将軍・雍州牧に任じて東海公に封じ、苻菁を衛大将軍に任じて平昌公に封じ、二宮を宿衛させた。雷弱児を太尉に、毛貴を司空に、母の兄弟である姜伯周尚書令に、梁楞を左僕射に、王堕を右僕射に、魚遵を太子太師に、妻の弟である強平太傅に、段純を太保に、呂婆楼を散騎常侍に任じ、他の官僚へも格差をつけて封授した。

2月、後趙の并州刺史張平は使者を派遣して前秦に降伏した。苻健は張平を大将軍・冀州牧に任じた。

3月、使者を各地へ派遣して民衆の疾苦を調べさせ、また俊異な人物を探し出して招聘した。さらに過酷であった税を緩和し、離宮の禁を解き、才能の無い人物を罷免し、奢侈・淫靡な官服を廃止した。また、趙の時代に民を苦しめていた苛政は全て廃止とした。

同月、杜洪は東晋の梁州刺史司馬勲の下へ使者を派遣し、苻健討伐を請うた。4月、司馬勲は要請に応じて歩騎3万を率いて秦川に入った。苻健はこれを迎え撃つと、五丈原にて幾度も撃破し、司馬勲を南鄭まで撤退させた。

かつて、中書令賈玄碩は尊号を献上しなかったので、苻健はこれを怨んでいた。その為、ある者に賈玄碩が司馬勲と内通していると密告させ、賈玄碩とその諸子を皆殺しとした。

352年1月、丞相苻雄等は苻健へ再び尊号を献上し、を引き合いに出して必ずしも石氏に倣う必要は無いと述べた(石氏はまず天王を号し、その後皇帝に昇った)。苻健はこれに従い、太極前殿において帝位に即くと、領内に大赦を下した。諸公を王に進封し、単于は百蛮を統率する者であって天子が領するべきではないと述べ、大単于の称号を子の苻萇に授けた。

諸勢力との戦い編集

同時期、杜洪は宜秋に駐屯していたが、配下の将軍張琚に殺害され、張琚は秦王と称した。

3月、碻磝津に駐屯していた羌族酋長姚襄を攻撃し、3万戸余りを殺した。姚襄が南下して滎陽に入ると、さらに将軍高昌・李歴を派遣して麻田で再びこれを攻めた。高昌らは姚襄を追い詰めたが、救援が到来したので討ち果たせなかった。この戦いで姚襄の司馬尹赤は前秦に降伏し、苻健は彼を并州刺史に任じ、蒲坂を鎮守させた。

4月、東晋に背き洛陽・許昌を占拠していた張遇を征東大将軍・豫州牧に任じた。

5月、宜秋へ侵攻し、張琚を撃破してその首級を挙げた。6月、長安に帰還した。

東晋の豫州刺史謝尚・并州刺史姚襄が許昌へ侵攻すると、苻健は苻雄・苻菁に関東を攻略させると共に、歩騎2万を与えて張遇を救わせた。両軍は潁水の誡橋において交戦となり、苻雄らは大勝を挙げて1万5千の兵を討ち取った。さらに、勝ちに乗じて進撃し、その砦門に到達すると、大半の兵を殺傷した。謝尚らは淮南へ敗走した。

7月、苻雄は張遇と陳・潁・許・洛の民5万戸余りを関中に移らせた。また、右衛将軍楊群を豫州刺史に任じ、許昌を鎮守させた[3]。8月、雷弱児を大司馬に、毛貴を太尉に、張遇を司空に任じた。

10月、謝尚は冠軍将軍王侠を派遣して許昌を攻めた。楊群はこれを守り切れず、許昌を失陥して弘農へ撤退した。

11月、苻雄は隴西を守る王擢を攻め、前涼へ敗走させた。苻雄は隴東に駐屯した。

353年2月、前涼君主張重華は征虜将軍王擢と将軍張弘宋脩に1万5千の騎兵を与え、苻雄を討伐させた。苻雄・苻菁は龍黎においてこれを返り討ちにし、1万2千の首級を挙げ、張弘・宋脩を捕らえて長安へ送った。王擢は秦州を放棄して姑臧に撤退した。苻健は領軍将軍苻願を秦州刺史に任じ、上邽を鎮守させた。

3月、西域の胡人である劉康劉曜の子と詐称し、平陽において衆人を集め、晋王を自称した。4月、左衛将軍苻飛がこれを討伐し、劉康を捕らえた。

5月、張重華はまた王擢に2万の兵を与えて上邽へ侵攻させると、秦州の郡県は多くがこれに応じた。苻願は王擢に敗北を喫し、長安まで撤退した。

6月、苻飛は仇池の氐王楊初を攻めるも、撃退された。苻雄・苻菁は歩騎4万を率いて隴東に駐屯した。

苻健は張遇の継母である韓氏を納めて昭儀に立て、しばしば衆人のいる中で張遇に向かって「卿は吾が養子である」と言った。だが、張遇はこれを恥じて恨みを抱き、苻雄ら精鋭が長安から離れている事を好機と思い、関中の諸将と結託して苻氏を滅ぼし、雍州ごと東晋に帰順しようと考えた。7月、張遇は中黄門劉晃と共に苻健を夜襲しようと謀り、劉晃は約束の時間に開門して張遇を招き入れる手はずであった。だが、ちょうど苻健は劉晃に外出を命じ、劉晃はこれを固く辞退したが認められず、止む無く出発した。張遇はこの事を知らず、兵を率いて門まで至ったが、開門する事はなかった。これにより謀反が発覚し、張遇は誅殺された。この事が知れ渡ると、張遇と結託していた孔特が池陽で、劉珍夏侯顕が鄠で、喬景が雍で、胡陽赤が司竹で、呼延毒は灞城でそれぞれ反乱を起こし、勢力はそれぞれ数万人に及び、みな使者を派遣して東晋の征西将軍桓温・中軍将軍殷浩に救援を請うた。

同月、左僕射魚遵を張遇の後任の司空に任じた。

9月、苻雄は2万を率いて長安に帰還すると、苻菁を派遣して上洛郡を攻略させた。また、豊陽川において荊州を設置し、歩兵校尉郭敬を荊州刺史に任じた。これにより、南方の金・奇貨・弓竿・漆蝋が流入するようになり、また関市(交易場)を設置した事で遠方より商人が訪れるようになった。これにより財産物資は充足し、珍品も満ち溢れたという。

同月、苻雄・苻法・苻飛は各々兵を分けて孔特らの討伐に当たった。

これより以前、殷浩は密かに使者を派遣し、梁安・雷弱児へ、もし苻健を殺したならば関中の統治を認めると伝えた。雷弱児は偽ってこれを受け入れ、東晋軍が到来すればこれに応じると返答した。10月、殷浩は寿春から7万を率いて北伐を行い、洛陽に入ろうとした。だがその途上で姚襄より奇襲を受けて大敗し、譙城へ撤退した。

11月、苻雄は池陽を攻略し、孔特を斬った。12月、苻法・苻飛は鄠を攻略し、劉珍・夏侯顕を斬った。354年1月、苻雄は司竹を攻略し、胡陽赤は灞城にいる呼延毒を頼った。

桓温襲来編集

2月、東晋の征西大将軍桓温が長安攻略を目指して北伐を敢行し、歩騎併せて4万を率いて江陵を出発した。水軍は襄陽から均口に入って南郷へと至り、陸軍は淅川から武関へ侵攻した。また、梁州刺史司馬勲は子午道から関中に入り、前秦を共同で撃った。

3月、桓温が上洛へと攻め寄せると、前秦の荊州刺史郭敬は敗れて捕らえられた。さらに青泥も桓温の進撃により陥落した。司馬勲もまた前秦の西の辺境を荒らし回り、前涼の秦州刺史王擢は桓温に呼応して陳倉を攻めた。苻健は苻萇・苻雄・苻菁・苻生・苻碩らに迎撃を命じ、5万の兵を与えて嶢柳・愁思堆に駐屯させて桓温を阻ませた。

4月、前秦軍は藍田において桓温と交戦となり、苻生は単独で敵陣へ突入し、10数回出入りして将軍応誕・劉泓を討ち取って1000人を殺傷した。だが、桓温もまた兵を率いて力戦したので、前秦軍は大敗を喫した。さらに、苻雄は東晋の将軍桓沖と白鹿原で交戦するも敗北を喫した。桓温は各地で転戦しながら前進し、遂に長安の東面にある灞上まで到達した。三輔の郡県は尽く桓温に降った。

苻萇らは長安城南へ後退して守備を固め、苻健は老弱兵6000人を伴って溝を深く掘り、長安小城に籠もった。また、残った精鋭兵3万を大司馬雷弱児らに与え、苻萇らと合流させて桓温を阻ませた。苻雄は騎兵7千を率いて子午谷に進み、司馬勲を破った。司馬勲は女媧堡まで後退した。

5月、王擢が陳倉を攻略し、前秦の扶風内史毛難を殺した。苻雄は白鹿原において桓温を迎え撃ち、1万人余りを討ち取った。当初、桓温は関中で麦が熟するのを待ち、兵糧とする腹積もりであった。だが、苻健は尽く作物を刈り取って逃走したので、兵糧の供給が難しくなってしまった。6月、桓温はこれ以上の侵攻を諦め、3000戸余りの民を引き連れて荊州へ帰還した。 呼延毒は1万の兵を率いて桓温に付き従った。

苻萇らは桓温を追撃し、潼関において幾度も破り、数万を討ち取った。苻雄は司馬勲・王擢を陳倉において破り、司馬勲を漢中に、王擢を略陽に敗走させた。苻健は光禄大夫趙倶を洛陽刺史に任じ、宜陽を鎮守させた。

同月、苻雄がこの世を去った。苻健は血を吐いて「天は我に四海を平定させるつもりはないのか?どうしてこんなに速く、我から元才(苻雄の字)を奪うのだ!」と慟哭したという。魏王を追贈し、司馬孚の故事に倣って葬礼を行い、子の苻堅に継がせた。

関中支配の確立編集

7月、苻萇は雍を守る喬秉を攻撃した。8月、雍を攻略して喬秉を処断した。これにより、関中は尽く平定された。

苻健は桓温撃退の功績を賞し、雷弱児を丞相に、毛貴を太傅に、魚遵を太尉に、苻生を中軍大将軍に、苻菁を司空に任じた。

10月、苻萇は桓温との戦いで矢傷を負っており、それが原因で亡くなった。献哀太子と諡した。

11月、前涼の秦州刺史王擢が兵を率いて前秦に降った。苻健は王擢を尚書に任じ、上将軍啖鉄を秦州刺史に任じた。

これより以前、苻健の叔父である苻安は東晋から帰還する途上で姚襄に捕らえられており、洛州刺史に任じられていた。12月、苻安は逃亡を図って前秦へ帰還すると、苻健は彼を大司馬・驃騎大将軍・并州刺史に任じて蒲坂を鎮守させた。

西虜である乞伏軍邪が帰順し、子を派遣して入侍させた。苻健は平朔門に来賓館を設置して遠人をもてなした。また、霊台を杜門に建立した。

この年、前秦では大飢饉となり、米1升が布1匹にもなった。

355年2月、大蝗害が発生し、華沢から隴山に至る地はみな食い尽くされて草一本残らなかった。牛馬は互いにその毛を食らい、狼などの猛獣が人を襲って食ったために道路が断絶するようになった。苻健は民の税を免じ、自らの食膳を減じ、音楽を奏すのを中止し、素服で正殿に赴くのを避けた。

4月、前秦の河内郡太守王会・黎陽郡太守韓高は郡を挙げて前燕に降った。

同月、前年に苻萇が亡くなった為、新たに太子を立てる事となった。強皇后は少子の晋王苻柳を太子に立てる事を望んだが、讖文に「三羊五眼」の一節があったとして、苻生を太子に立てた(三頭の羊に眼は五つという事は、眼が一つ失われている。また、苻生は三男であった)。 また、司空苻菁を太尉に、尚書令王堕を司空に、司隷校尉梁楞を尚書令に任じた。

苻菁の乱と最期編集

6月、苻健は病床に伏せるようになった。苻菁は兵を率いて東宮に入ると、苻生を殺して自立を図ろうとした。この時、苻生は西宮において看病に当たっていたので、これを見た苻菁は既に苻健が死んだものと考え、東掖門を攻撃した。苻健は変事を聞くと、端門に登って兵を整列させて自衛した。苻菁の兵は苻健を見ると大いに恐れ、みな武器を捨てて逃散してしまった。苻健は苻菁を捕らえ、罪状を数え上げてから処刑し、その他の者は罪には問わなかった。その後、苻菁の後任として、王苻安を都督中外諸軍事に任じた。

苻健は魚遵・雷弱児・毛貴・王堕・梁楞・梁安・段純・辛牢らを呼び寄せ、苻生を輔政するよう遺詔した。また、苻生へ向けて「六夷酋師・大臣の執権者の中で、もし汝の命に従わぬ者がいれば、少しずつ除いていくように」と言い残した。数日すると苻健は亡くなった。享年39、在位する事4年であった。明皇帝と諡され、廟号を世宗とされた。357年、苻堅が即位すると、改めて景明皇帝と諡され、廟号を高祖とされた。

業績編集

苻健はいつも政事に勤しみ、しばしば公卿と治道について相談し合った。後趙の苛虐・奢侈な時代のすぐ後であったので、寛簡、節倹な政務を旨とし、民衆とは法三章(殺人・傷害・窃盗だけを罰するとした3か条の法)を約した。また、税を軽減してその宮殿も質素なものとした。士には礼を尽くし、老人を優遇し、儒者を尊んで儒学を振興させた。これにより前秦の民は大いに喜び、関右(関中)では来蘇(その到来により百姓の苦しみを救い、活気を蘇らせる事)と称えられた。

逸話編集

  • 母の姜氏は苻健を身籠った時、大熊の夢を見たという。
  • 新平において長人が出現して民の張靖へ「苻氏は天に応じて命を授かり、今太平をもたらす。外にある者も帰順し、安泰を得るであろう」と語った。張靖はその姓名を問うたが、答えることなく、突然姿を消してしまった。新平県令はこの事を上奏すると、苻健は妖言であると判断し、張靖を投獄した。すると、連日に渡り大雨や霖が発生し、河・渭が溢れた。蒲津監の寇登は河から1つの履を発見し、その長さは7尺3寸もあった。また、人の足跡らしき痕跡も見つかり、指の長さは1尺余、深さは1寸もあった。これを聞いた苻健は嘆息して「この覆載(天地)の中、どこにでもある物ではない。張靖は虚言をなしていたわけではないのであろう」と語り、張靖を赦した。

脚注編集

  1. ^ 『晋書』では大都督・関中諸軍事と記される
  2. ^ 『晋書』では「我が官位の軽重は汝らの知るところではない」と記される
  3. ^ 『晋書』では、張遇を司空・豫州刺史に任じ、許昌を鎮守させたと記載される

参考文献編集