葛蛇玉

1735-1780, 江戸時代中期の絵師

葛蛇玉(かつ じゃぎょく、享保20年1月10日1735年2月2日) - 安永9年10月20日1780年11月16日))は江戸時代中期の絵師大坂の人。名は徹、のち季原。は子明。洞郭とも号した。の絵を得意としたため「鯉翁」と呼ばれ、上田秋成著『雨月物語』にある「夢応の鯉魚」のモデルと言われる。

略伝

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蛇玉の人となりは片山北海による墓碑銘[1]によって知られる。木村宗訓の子孫が代々住職を務める浄土真宗の寺・玉泉寺の四代目・宗琳の次男として生まれる。後に長嶋喜右衛門なる者の婿養子となった。長嶋氏の祖は谷八(やつ)氏で、長嶋家の宗家は小早川隆景の子孫であることから、小早川谷八と称した。葛の姓は、この谷八の音「KOZU YATSU」を、葛「KATSU」としたと推測される[独自研究?]。画をはじめ橘守国、および鶴亭に学ぶ。後にの古画を模して一家を成した。

明和3年(1766年)2月22日の晩、蛇が玉を咥えて来る夢を見て、目覚めるとそこに玉があった。これが何の吉祥か分からなかったが、この事件から自ら「蛇玉」と称するようになったという。この逸話を裏付けるように、「蛇玉図」の賛文に木版でこの逸話が記されており、同様の作品が他にもあることから、蛇玉は同図を名刺がわりに相当数描いて配り、自らを売り込もうとしたとも考えられる。

人柄は風流閑雅で、有閑公子の風があった。晩年には南木綿町に住み、当時の人名録にも名前が記載されている。「秋水鯉魚図」とともに紹介された「蘿園雅集図」により、混沌社の詩人たちとの交遊があったことが確かめられた。享年46。墓所は、下寺町大蓮寺だが、墓石は残っていない。息子の蛇含(じゃがん)も絵師となったというが、その作品は全く知られていない。蛇玉の方も現在確認されている作品は極めて少なく、10点しかない。

作品

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作品名 技法 形状・員数 寸法(縦x横cm) 所有者 年代 落款 印章 備考
山高水長図 絹本墨画淡彩 1幅 101.3x50.9 関西大学[2] 明和3年以前 洞郭製圖
蛇玉図 紙本墨画淡彩 1幅 MIHO MUSEUMほか 明和3年(1766年) 鹿門河維明(大坂の儒学者・河合鹿門)文[3]
蛇玉図 紙本墨画淡彩 1幅 100.8x28.0 個人(静岡県立美術館寄託 明和3年(1766年)賛 河合鹿門賛
雪中松に兎・梅に鴉図屏風(雪夜松兎梅鴉図屏風) 紙本墨画 六曲一双 心遠館コレクション 安永3年(1774年 蛇玉の代表作にして、長く忘れ去られた葛蛇玉の名が再び世に知られるきっかけとなった作品。画面全体に刷毛引きの墨によって微妙なグラデーションが付けられ、そこに現出した深い闇の空間には無限の奥行き感が漂う。そこに胡粉による雪を散らした背景に、松や梅の大樹が勢いよく描かれ、降り積もる雪は紙の下地の白色を最大限に活かしている。松には兎、梅には鴉が止まり、そこにそれぞれもう1羽の兎と鴉がやってくるという、黒と白、静と動が入り混じった不思議で幻想的な作品に仕上がっている。図版などでは向かって右に「松に兎」、左に「梅に鴉」を置く場合が殆どだが、左右を入れ替えた方がやってくる兎と鴉が画面に飛び込んでくる効果が生まれる事や、落款の位置、東アジア世界では伝統的に鴉は「日」、兎は「月」を表し、「日月」の意匠では必ず右隻に「日」、左隻に「月」が表されることから、左右隻を入れ替えた置き方が正しいと推測される。
蘭石鸚鵡図 絹本著色 1幅 心遠館コレクション
鯉魚図 絹本著色 3幅対 99.4x33.0(各) 滋賀県・曹源寺(滋賀県立安土城考古博物館寄託) 右幅:蛇玉山人葛季原
中左幅:蛇玉葛季原
鯉魚図 絹本著色 1幅 97.8x31.1 ファインバーグ・コレクション 蛇玉葛季原謹寫 「蘿園」朱文楕円印・「亀泳(?)朱文円印・「與古為徒」朱文長方印」 曹源寺本の右幅と酷似[4]

脚注

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  1. ^ 現存せず。しかし、木村敬二郎編 『稿本大阪訪碑録』(『浪華叢書』巻十、昭和4年(1929年))で判明する。
  2. ^ 山高水長図 - 関西大学デジタルアーカイブ 2020年2月4日閲覧。
  3. ^ 井上泰至(2013)
  4. ^ 小林忠監修 江戸東京博物館 MIHO MUSEUM 鳥取県立博物館編集 『ファインバーグ・コレクション展 江戸絵画の奇跡』 読売新聞社、2013年、第61図。

参考資料

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