董 文忠(とう ぶんちゅう、太宗3年(1231年) - 至元18年10月25日1281年12月7日))は、13世紀半ばにモンゴル帝国に仕えた漢人の一人。字は彦誠。

概要 編集

董文忠はモンゴル帝国最初期の漢人将軍の董俊の八男であり、1252年壬子)よりクビライケシクテイ(宿衛)に仕えるようになった。この頃、クビライの配下で著名な学者であった王鶚が董文忠に詩歌を学んでいるかと尋ねたところ、「若いときから書を読んでいますが、内に入っては親に孝行を尽くし、外に出ては君主に忠義を尽くすのみで、詩は学ぶところではありません」と率直に答えた逸話が残されている[1]1253年癸丑)からはクビライの大理遠征に従軍し、兄の董文炳が後から参陣した時には迎えに出ている[2]1259年己未)、クビライによる長江中流域への侵攻が始まると兄の董文炳・董文用らとともに陽羅堡で南宋軍を破り、後には鄂州の包囲にも加わった[3]

モンケ・カアンの急死によってクビライが即位すると、新設の符宝局の郎に起用され、また奉訓大夫の地位を授けられてクビライのそば近く仕えた[4]。至元2年(1265年)に右丞相アントン・ノヤンを中心とする新政が始まると、十事について陳情を行ったという[5]

至元11年(1274年)、南宋領への侵攻が本格化すると、民への負担が大きくなったため、董文忠は一部免税を上奏して認められている。臨安が陥落し、南宋朝廷の主要人物たちがクビライの下に連行されてきた。クビライが彼らに南宋が滅んだ理由を尋ねたところ、皆が口をそろえて「賈似道が武人を軽んじる一方で文人を重んじたため、将士がこれを恨み闘志を失ったのです」と答えた。そこでクビライが董文忠に 「この言をどう思うか」と問いかけた所、董文忠は「買似道は確かに汝らを軽んじたかもしれないが、君主は官を以て汝らを貴び、秩禄を以て高ませており、汝らを軽んじたとは言えない。丞相への恨みを理由に戦わず、 座して亡国を見届けたというのは、臣として節度ある行為といえようか?」と批判し、クビライもこの言を認めた。またこの頃、大都の猟戸を郢中に移住させるという案が出されたが、董文忠の反対によって取りやめとされている[6]

この頃、治安が悪化して盗賊が多発しており、朝廷は捕らえた盗賊を全て処刑して釈放することがなかったのに、虜囚で獄中は満ちているという状態にあった。ある時、漢人がモンゴル人を殴打して傷つける事件があり、これを聞いて怒ったクビライは処刑としようとした。しかし董文忠はクビライを諫めて実状を究明し、漢人への罪状は改められた。報告を受けたクビライは「董文忠の諫言がなければ、無辜の人を殺すところであった」と褒め称え、皇太子チンキムも怒れるクビライに臆せず諫言をなした董文忠を高く評価したという[7]

至元16年(1279年)、アントンがカイドゥの乱討伐のため出征して以後、クビライの宮廷は尚書省を取り仕切るアフマド・ファナーカティーが権勢を振るうようになった。ある時、アフマドは反アフマド派の急先鋒である廉希憲を遠ざけるために江陵に左遷させようとし、華文忠にも意見が求められた。この時、董文忠は「廉希憲は国家の名臣であり、いま宰相位が空席となっている時に、辺境に長く置くべきではありません」と述べ、この意見が受け入れられて廉希憲は早くに中央に戻ることができたという[8]

ある時、礼部尚書の謝昌元が門下省の設立を要請したことがあり、これに興味を持ったクビライは廷臣に設立を協議させた。それから3日後、延臣は董文忠のような「盗詐の臣」がいては新たな部署は設立できませんと上奏したため、これに怒った董文忠はクビライに弁明した上で逆に延臣を攻撃した。延臣は董文忠を陥れようとしたものの、清廉で過ちがなかったため上手くいかなかったという。董文炳が亡くなった後、バヤンは董文忠を後任の丞相とすべきであると述べた。しかし、董文忠は「兄は南宋侵攻の功績があってこそこの位を得たというのに、どうして私が同じ地位をえられましょうか」として辞退したという[9]

至元18年(1281年)、董文忠の所属する符宝局は 「典瑞監」 に格上げとなり、これにあわせて童文忠の地位も「郎」から「卿」とされた。更にこの後、資徳大夫・僉書枢密院事の地位も授けられている。また、大元ウルス皇帝は上都と大都の季節移動を毎年行っていたが、この年には皇帝が上都に滞在する間の大都の宮苑・城門・直舍・徼道・環衛・営屯・禁兵・太府・少府・軍器・尚乗といった事務は全て童文忠が取り仕切るようになったという。しかし、同年冬10月25日、 鶏が鳴いてまさに入朝しようとした時、 文忠は急病により倒れた。皇帝は使者を派遣して良薬をもたらしたものの効果はなく、遂に董文忠は亡くなった[10]。クビライはこれを深く惜しみ、家族に銭数10万を下賜したという[11]

藁城董氏 編集

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
董昕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
董俊
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
董文炳
 
董文蔚
 
董文用
 
 
 
 
 
董文直
 
董文毅
 
董文進
 
董文忠
 
董文毅
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
董士元
 
董士選
 
董士階
 
董士廉
 
董士表
 
 
 
 
 
董士珍
 
董士良
 
董士恭
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
董守仁
 
董守恕
 
董守輯
 
 
 
 
 
董守義
 
董守中
 
董守簡
 
董守譲
 
董守訓
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
董鑑
 
 
 
 
 
 
 
 
 
董鈞
 
董鎋
 
董鉞
 
董錞

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脚注 編集

  1. ^ 安部1972,51-52頁
  2. ^ 牧野2012,351-352頁
  3. ^ 『元史』巻148列伝35董文忠伝,「文忠字彦誠、俊第八子也。歳壬子、入侍世祖潜邸。王鶚嘗言詩、因問文忠能之乎、文忠曰『吾少読書、惟知入則孝於親、出則忠於君而已。詩非所学也。』癸丑、従征南詔。己未、伐宋、与兄文炳・文用敗宋兵於陽羅堡、得蒙衝百艘、進囲鄂」
  4. ^ 藤島1986,17-18頁
  5. ^ 『元史』巻148列伝35董文忠伝,「世祖即位、置符宝局、以文忠為郎、授奉訓大夫、居益近密、嘗呼董八而不名。文忠不為容悦、隨事献納、中禁事祕、外多不聞。至元二年、安童以右丞相入領中書、建陳十事、言忤旨、文忠曰『丞相素有賢名、今秉政之始、人方傾聴、所請不得、後何以為』。遂従旁代対、懇悃詳切、如身條是疏者、始得允可。八年、侍講学士徒単公履欲奏行貢挙、知帝於釈氏重教而軽禪、乃言儒亦有之、科挙類教、道学類禪。帝怒、召姚枢・許衡与宰臣廷辨。文忠自外入、帝曰『汝日誦四書、亦道学者』。文忠対曰『陛下每言士不治経講孔孟之道而為詩賦、何関修身、何益治国由是海内之士、稍知従事実学。臣今所誦、皆孔孟之言、焉知所謂道学而俗儒守亡国餘習、欲行其説、故以是上惑聖聴、恐非陛下教人修身治国之意也』。事遂止」
  6. ^ 『元史』巻148列伝35董文忠伝,「十一年、伐宋、民困供饋、文忠奏免常歳横征、従之。帝嘗見宋降将、従容問宋所以亡者、皆曰『賈似道当国、薄武人而重文儒、将士怨之、莫有鬭志。故大軍既至、争解甲帰命也』。帝問文忠『此言何如』。文忠因詰之曰『似道薄汝矣、而君則貴汝以官、富汝以禄、未嘗薄汝也。今有怨於相、而移於君、不肯一戦、坐視国亡、如臣節何然則似道薄汝者、豈非預知汝曹不足恃乎』。帝深善之。有旨徙大都獵戸於郢中、文忠奏止之。又請罷官鬻田器之税、聴民自為」
  7. ^ 『元史』巻148列伝35董文忠伝,「時多盜、詔犯者皆殺無赦。在処繫囚満獄。文忠言『殺人取貨、与竊一銭者均死、慘黷莫甚、恐乖陛下好生之徳』。敕革之。或告漢人殴傷国人、及太府監属盧甲盜剪官布。帝怒、命殺以懲衆。文忠言『今刑曹於囚罪当死者、已有服辞、猶必詳讞、是豈可因人一言、遽加之重典宜付有司閱実、以俟後命』。乃遣文忠及近臣突満分覈之、皆得其誣状、遂詔原之。帝因責侍臣曰『方朕怒時、卿曹皆不敢言。非董文忠開悟朕心、則殺二無辜之人、必取議中外矣』。因賜文忠金尊、曰『用旌卿直』。裕宗亦語宮臣曰『方天威之震、董文忠従容諫正、実人臣難能者』。太府監属奉物詣文忠泣謝曰『鄙人頼公復生』。文忠曰『吾素非知子、所以相救於危急者、蓋為国平刑、豈望子見報哉』却其物不受」
  8. ^ 『元史』巻148列伝35董文忠伝,「自安童北伐、阿合馬独当国柄、大立親党、懼廉希憲復入為相、害其私計、奏希憲以右丞行省江陵。文忠言『希憲、国家名臣。今宰相虚位、不可使久居外、以孤人望、宜早召還』。従之。十六年十月、奏曰『陛下始以燕王為中書令・枢密使、纔一至中書。自冊為太子、累使明習軍国之事、然十有餘年、終守謙退、不肯視事者、非不奉明詔也、蓋朝廷処之未尽其道爾。夫事已奏決、而始啟太子、是使臣子而可否君父之命、故惟有唯默避遜而已。以臣所知、不若令有司先啟而後聞、其有未安者、則以詔敕断之、庶幾理順而分不踰、太子必不敢辞其責矣』。帝即日召大臣、面諭其意、使行之。復語太子曰『董八、崇立国本者、其勿忘之』」
  9. ^ 『元史』巻148列伝35董文忠伝,「礼部尚書謝昌元請立門下省、封駁制敕、以絕中書風曉近習奏請之弊。帝鋭意欲行之、詔廷臣雜議。且怒翰林学士承旨王磐曰『如是有益之事、汝不入告、而使南方後至之臣言之、汝用学問何為必今日開是省』。三日、廷臣奏以文忠為侍中、及其属数十人。近臣乗便言曰『陛下将別置省、此実其時。然得人則可以寬聖心、新民聴。今聞盜詐之臣与居其間、不可』。其言多指文忠。文忠忿辨曰『上每称臣不盜不詐、今汝顧臣而言、意実在臣。其顯言臣盜詐何事』帝令言者出、文忠猶訴不止、且攻其害国之姦。帝曰『朕自知之、彼不言汝也』。其人忌文忠、欲中害之、然以文忠清慎無過、乃奉鈔万緡為寿、求交驩、文忠却之。文炳為中書左丞卒、太傅伯顔乃表文忠可相、帝使継其官、文忠辞曰『臣兄有平定南方之労、可居是位。臣嘗給事居中、所宣何力、敢冒居重職乎』」
  10. ^ 藤島1986,19頁
  11. ^ 『元史』巻148列伝35董文忠伝,「十八年、陞典瑞局為監・郎為卿、仍以文忠為之。授正議大夫、俄授資徳大夫・僉書枢密院事、卿如故。車駕行幸、詔文忠毋扈従、留居大都、凡宮苑・城門・直舍・徼道・環衛・営屯・禁兵・太府・少府・軍器・尚乗諸監、皆領焉。兵馬司旧隸中書、併付文忠。時権臣累請奪還中書、不報。是冬十月二十有五日、雞鳴、将入朝、忽病仆、帝遣中使持薬投救不及、遂卒、甚悼惜之、賻銭数十万。後制贈光禄大夫・司徒、封寿国公、諡忠貞」
  12. ^ 藤島1986,14頁

参考文献 編集

  • 元史』巻148列伝35董文忠伝
  • 安部健夫『元代史の研究』創文社、1972年
  • 藤島建樹「元朝治下における漢人一族の歩み--藁城の董氏の場合」『大谷学報』66(3)、1986年
  • 藤野彪/牧野修二編『元朝史論集』汲古書院、2012年