蕭徳妃

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蕭徳妃(しょうとくひ)は、

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  • 聖宗の蕭徳妃。開泰6年(1017年)6月、死を賜った。
  • 天祚帝の蕭徳妃。小字は師姑。北府宰相蕭常哥の次女。寿隆2年(1096年)、燕王耶律阿果(後の天祚帝)の妃として宮中に入り、燕国妃に封じられた。耶律撻魯を生んだ。乾統3年(1103年)、徳妃となった。耶律撻魯は燕国王となり、徳妃には賛翼の号を加えられた。乾統4年(1104年)春、耶律撻魯が早逝すると、まもなく徳妃も死去した。
  • 北遼耶律淳の徳妃蕭普賢女。保大2年(1122年)6月、耶律淳が病死すると、秦王耶律定を擁立し、徳妃は皇太后となった。軍に追われて天徳軍に逃げ込み、天祚帝と面会したが、天祚帝の怒りを買って、保大3年(1123年)2月に殺害された。

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