薄定吉
薄 定吉(すすき さだきち[1]、1862年2月14日(文久2年1月16日)[2] - 1927年(昭和2年)12月16日[3])は、日本の教育者、内務官僚。官選岐阜県知事、長崎市長。旧名・定右衛門[2]。
経歴
編集備前国岡山城下門田屋敷出身。岡山藩士の家に生まれる[2]。岡山中学校、大阪専門学校予科、築地大学校を経て、1882年7月、東京大学予備門を卒業。さらに1888年7月、帝国大学法科大学を卒業した[1]。
1888年8月、第四高等中学校教諭に就任。さらに同校教授となる。1891年1月、内務省に転じ内務省試補となる。以後、図書局勤務、県治局勤務、鹿児島県参事官、同兼内務部第三課長、同兼内務部第一課長、長崎県参事官、同兼内務部第三課長、同兼内務部第五課長、群馬県書記官、山梨県書記官、奈良県書記官、鳥取県書記官、宮城県書記官、同事務官・第一部長、同兼第三部長などを歴任[2]。
1906年11月、岐阜県知事に就任。知事官舎新築、蚕業試験場の設置、県外移出米検査制度の創設、産業組合の奨励などを推進した。1913年6月、知事を辞職し退官した[2][4]。同年8月21日、長崎市長に就任するも翌月18日に辞職した。
栄典
編集- 位階
- 勲章
脚注
編集参考文献
編集- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
- 内閣「薄定吉第四高等中学校教諭ニ被任ノ件」明治21年。国立公文書館 請求番号:本館-2A-018-00・任A00179100
- 内閣「薄定吉長崎県長崎市長就任ノ件」大正2年。国立公文書館 請求番号:本館-2A-019-00・任B00686100
公職 | ||
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先代 北川信従 |
長崎市長 6代:1913 |
次代 高崎行一 |