北川 信従(きたがわ のぶより[1] / のぶつぐ[2]1860年8月1日(万延元年6月15日) - 1924年大正13年)4月27日[1])は、日本検察官政治家長崎市長、官選県知事。旧名・熊弥。俳号・烏山[1]

北川信従

経歴

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土佐国安芸郡北川郷柏木(現高知県安芸郡北川村)で、土佐藩郷士・北川信通、園の二男として生まれる。田野村の漢学塾、高知の森沢塾で学んだ。1878年、咬根学舎、さらに南海私塾の各教師を務めた[1]

1883年7月、司法省法学校速成科を卒業。検事補に任官し和歌山始審裁判所詰となる。1887年3月、判事登用試験に合格し、同年7月、検事に任官。その後、田辺裁判所検事兼和歌山地方裁判所検事、大阪地方裁判所検事、松山地方裁判所検事、広島地方裁判所検事などを歴任。1897年8月、台湾総督府法院検察官に就任。以後、覆審法院検察官兼台北地方法院検察官、同地方法院検察官長などを歴任し、1900年11月、依願免本官となる。1901年5月、検事に再任され宇都宮地方裁判所検事正に就任。以後、大審院検事、長崎地方裁判所検事正を務めた[3]1907年6月、依願免本官となる[4]

1907年6月、長崎市長に就任。1913年5月、市長を退任。郷土の先輩・大石正巳の推薦により、1914年6月、栃木県知事に就任。そのため立憲同志会派とされ反対派から「干渉知事」と呼ばれた[5]。育英資金を県費から支出することを県会に提案し認められた。1916年6月、新潟県知事に転任。本県においても育英資金に取り組み、石油王・中野貫一に働きかけ、百万円の寄付を得て中野財団が発足した[2]1917年12月17日、知事を依願免本官となり退官した[4]

その後、療養のため帰郷。川崎幾三郎宇田友四郎に働きかけ私立土佐中学校の創立に尽力。病のため高知市で死去した[1]

栄典

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親族

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伝記

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脚注

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  1. ^ a b c d e 『高知県人名事典 新版』252頁。
  2. ^ a b 『新編日本の歴代知事』406頁。
  3. ^ 「長崎県長崎市長後任候補者中北川信従市長就任ノ件」
  4. ^ a b 「故北川信従位階追陞ノ件」
  5. ^ 『新編日本の歴代知事』267頁。
  6. ^ 『官報』第5312号「叙任及辞令」1901年3月22日。

参考文献

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  • 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
  • 『高知県人名事典 新版』高知新聞社、1999年。
  • 内閣「長崎県長崎市長後任候補者中北川信従市長就任ノ件」明治40年。国立公文書館 請求番号:本館-2A-019-00・任B00474100
  • 内閣「故北川信従位階追陞ノ件」大正13年。国立公文書館 請求番号:本館-2A-016-00・叙00782100
公職
先代
横山寅一郎
  長崎市長
5代:1907 - 1913
次代
薄定吉