薪荘
薪荘(たきぎのしょう)は、鎌倉時代の山城国にあった荘園。石清水八幡宮領[1][2]。薪薗(たきぎのその)とも呼ばれた[1][2]。
概要
編集所在地は山城国綴喜郡[1][2]。木津川の西岸、現在の京都府京田辺市の甘南備山(かんなびやま)の山麓に位置した[2](現在もこの辺りに「薪」の地名が残っている)。規模は不明。領家は石清水八幡宮[1][2]。
保元3年(1158年)12月3日の官宣旨[3]に宮寺領として登場する。これが史料上における初見である[1][2]が、その後の史料によればそれより前の10世紀に石清水八幡宮に寄進されたものであるという[1][2]。しかし、平安時代における様子はよく分かっていない[2]。
鎌倉時代に入ると、嘉禎元年(1235年)、西北にある興福寺領大住荘(おおすみのしょう)との間で用水に関する相論が起こり、興福寺側によって薪荘の在家60宇が焼打ちにされ、更に石清水八幡宮の神人2名が殺害されるという事件が起こった[1]。これを機に、石清水八幡宮と興福寺の両権門間で相論が続き[1]、弘安5年(1282年)になって亀山上皇の院宣が出され、大住・薪の両荘が関東一円地と変換されて「関東御領」となった[4]。
参考文献
編集脚注
編集- ^ a b c d e f g h 『世界大百科事典 第2版』「薪荘」の項(コトバンク)。
- ^ a b c d e f g h 『百科事典マイペディア』「薪荘」の項(コトバンク)。
- ^ 『平安遺文』 第2959号。
- ^ 海津、1998年。 尚、この時興福寺による強訴があったため、その責任を取らされる形で、六波羅探題の下で評定衆であった長井頼重が越後国に、六波羅探題北方・北条時村の被官人・弾正忠職直(もとなお)が土佐国に、それぞれ流罪となっている。しかし、両者ともほどなくして復帰しているため、「流罪」とはその場を収める方便だったようである(服部英雄「新刊紹介 悪党研究会編『悪党の中世』」(所収:『史学雑誌』107-11号、1998年12月、p.123-126))。