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薬師寺 長忠(やくしじ ながただ)は、戦国時代の武将細川氏(京兆家)の重臣で摂津守護代

 
薬師寺長忠
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 永正4年8月1日1507年9月7日
別名 与次、三郎左衛門尉(通称)
幕府 室町幕府摂津国守護代
主君 細川政元澄之
氏族 薬師寺氏
父母 父:薬師寺長盛
兄弟 元一長忠
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生涯編集

これまでは、薬師寺元長の子とされてきたが、近年では元長には実子はなく、その弟である薬師寺長盛の子とみられている[1][2]

元長の死後、薬師寺家当主の座と摂津守護代職は共に兄の薬師寺元一が継いでいた。しかし、元一が永正元年(1504年)に細川政元の養子の一人である澄元を擁立すべく挙兵した際にこれを鎮定し、その功によって守護代職と家督は長忠が跡を継いだとされる[3]。ただし、近年の研究では、薬師寺氏の摂津守護代は兄弟で半国ずつ分割する慣例が成立しており、元一が上郡の守護代、長忠が下郡の守護代で、元一の反乱後は長忠の下に守護代職が再統合されたと考えられている[2]

永正4年(1507年)6月23日、香西元長竹田孫七らと謀って政元を暗殺する(永正の錯乱)。そして政元の養子である細川澄之を擁立した。これは長忠が政敵である三好之長を排除するため、之長を重用する政元を殺害して細川家の権力を握ろうとしたとする説が有力である[4]

しかし約40日後の8月1日、細川高国方に属していた甥(元一の子)の万徳丸(薬師寺国長)に茨木城で攻撃を受けて敗北し、澄之や香西元長らと共に討死した[5]。その細川高国によって、摂津守護代職は再び万徳丸(薬師寺国長)・岩千代丸(薬師寺国盛)兄弟によって分割された[2]

注釈編集

  1. ^ 不問物語』文亀元年12月18日条。
  2. ^ a b c 馬部隆弘「摂津守護代薬師寺氏の寄子編成」(初出:『新修 茨木市史年報』第115号(2017年)/所収:馬部『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02950-6) 2018年、P171-172.
  3. ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉14頁。
  4. ^ ただし対立していたのは香西元長とする説がある。『三好長慶』〈人物叢書〉16頁。
  5. ^ (『宣胤卿記』『多聞院日記』『瓦林政頼記』)『三好長慶』〈人物叢書〉18頁。

参考文献編集