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薬師 恵日(くすし の えにち、生没年不詳)は、飛鳥時代の医師。難波薬師奈良の先祖に当たる。

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経歴編集

百済から帰化した元高句麗人の医人徳来(とこらい)の5代目の孫であると、『続日本紀』巻第二十にある。それによると、雄略天皇が百済に才芸のある人を求めたことがあり、その際に百済政府が徳来をすすめたのだという[1]。これは、推定463年、『日本書紀』巻第十四にある、吉備上道弟君吉備海部赤尾雄略天皇の命で「今来(いまき)の才伎(てひと)」あるいは「手末(たなすえ)の才伎」を百済より献上させたという記事と呼応している[2]

その後、子孫の恵日は推古天皇の時代に「大唐国」に派遣され、医術を修得したという。彼の「薬師」という氏は職業名を氏にしたものだと、前掲の『続紀』にある[1]。これに対応する記事を『書紀』に求めると、巻第二十二の推古天皇16年(608年)9月、小野妹子を「唐」(もろこし)に帰国する使節の裴世清に同伴させて、大使(おおつかい)として派遣した、という記事しか見当たらない。ところが、この時に隨行した学生や学問僧計8名の中には、高向玄理南淵請安の名前はあり、また倭漢直福因は後の記述で一緒に登場するのであるが、この場面では恵日の名前は見あたらない[3]。なお、ここまでで「唐」・「大唐」とあるのは、「」のことである。

推古天皇31年(623年)7月に新羅使の奈末(なま)智洗爾(ちせんに)に隨行して帰国したことは『書紀』に見える。そこには

(こ)の時に、大唐(もろこし)の学問者僧(ものならひひとほふし)恵斉(ゑさい)・恵光(ゑくゎう)及び医(くすし)恵日(ゑにち)・福因(ふくいん)(ら)、並に智洗爾(ら)に従(したが)ひて来(まうく)

これが、史書における恵日の名の初出である。是の時、恵日は、

「もろこしの国に留まっている学者は、皆学んで業を成し遂げています。召喚されると良いでしょう。なおかつ、かの大唐国は法式完備の立派な国です。常に交流するべきでしょう」

と言っている[4]。ここに現れる「大唐国」は「」である。

その後、舒明天皇2年(630年)8月、犬上三田耜とともに、遣唐使として大陸に派遣されている。この時の冠位大仁[5]

白雉5年(654年)2月にも遣唐使の一行に加わっている。この時は副使を務めており、位階は大山下(だいせんげ)である[6]

医書として隋の『病源候論』 、唐の『千金方』 を伝えたといわれている。 子孫は難波薬師を氏とした。

脚注編集

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  1. ^ a b 『続日本紀』孝謙天皇 天平宝字2年4月28日条
  2. ^ 『日本書紀』雄略天皇7年是歳条
  3. ^ 『日本書紀』推古天皇16年9月5日条
  4. ^ 『日本書紀』推古天皇31年7月条
  5. ^ 『日本書紀』舒明天皇2年8月5日条
  6. ^ 『日本書紀』孝徳天皇 白雉5年2月条

参考文献編集

  • 『コンサイス日本人名辞典 改訂新版』p444(三省堂、1993年)
  • 『日本書紀』(三)・(四)、岩波文庫、1994年 - 1995年
  • 『日本書紀』全現代語訳(下)、講談社学術文庫宇治谷孟:訳、1988年
  • 『続日本紀』全現代語訳(中)、講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1992年
  • 『日本の歴史2 古代国家の成立』、直木孝次郎:著、中央公論社、1965年

関連項目編集