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藤原 季仲(ふじわら の すえなか)は、平安時代後期の公卿藤原北家小野宮流権中納言藤原経季の子。官位正二位権中納言

 
藤原季仲
時代 平安時代後期
生誕 永承元年(1046年
死没 元永2年6月1日1119年7月10日
改名 黒帥
官位 正二位権中納言
主君 後冷泉天皇後三条天皇白河天皇堀河天皇
氏族 藤原北家小野宮流
父母 父:藤原経季、母:藤原邦恒の娘(姉)
兄弟 通家季仲季実兼平雅経、増覚、真覚
高階泰仲の娘、大池成助の娘
懐季実明、仲願、延覚、仲胤、顕国仲光季頼、覚善、源行宗室、女子
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経歴編集

康平元年(1058年従五位下に叙せられる。延久元年(1069年)に刑部少輔に任じられる。以後、少納言右少弁・左少弁・左中弁を経て、寛治6年(1092年)に蔵人頭に任じられる。同8年(1094年)に参議兼左大弁に昇進、従三位に叙せられる。ついで正二位権中納言となり、大宰権帥を兼ねて現地に派遣された。

ところが、長治2年(1105年)、延暦寺末寺筑前国大山寺竈門宮[1]での濫行事件鎮圧のために宣旨を受けて現地に派遣されていた延暦寺の大衆の追捕に向かい、現地で交戦して日吉社神人を殺害して竈門宮の神輿を破壊した。これが京都に伝わると延暦寺大衆による強訴事件へと発展した。

そのため、朝廷は季仲を「謀大逆」の罪で捕えて周防国に配流、翌年には配所を常陸国に移した。また、子の刑部少輔懐季・少納言実明解官された。その後、常陸国で出家して現地で死去した。

子・仲光の子に鎌倉時代初期の東国在地武士、毛呂季光がいる。

逸話編集

平家物語』には、季仲の顔色が黒かったので「黒帥」と渾名されたと記されており、彼の日記『季仲卿記』も『玄記』という通称が付けられたという。

系譜編集

脚注編集

参考文献編集