藤原景舒
藤原 景舒(ふじわら の かげのぶ)は、平安時代中期の貴族。従三位・藤原国章の子[6][1]。
時代 | 平安時代中期 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
官位 | 正四位下[1]、伊予守[注 1][2] |
主君 | 村上天皇 → 冷泉天皇 → 円融天皇 → 花山天皇 → 一条天皇 |
氏族 | 藤原北家長良流[1] |
父母 | 父:藤原国章、母:伊予守能守の娘[注 2][1] |
兄弟 | 景舒、君章、景斉、源惟正の室[1]、藤原兼家の妻[4] |
妻 | 源遠古の娘[1] |
子 | 景章、忠家[1]、藤原則友の妻[5] |
経歴
編集天徳4年(960年)天徳内裏歌合で念人を務めた童子の一人として名が見える[7]。永観2年(984年)娘を五節舞の舞姫として殿上に献じている[注 3][6]。
円融朝から一条朝にかけて、伊賀守・加賀守・播磨守など受領を歴任[9][10][2]。六位蔵人を務めていた時期もあり、天皇側近の受領階層だったことがうかがえる[6][11][1]。また兄弟の景斉とともに藤原実資の家人でもあった[12]。
一条朝前期の永延3年(989年)播磨守であった景舒は、伊予守・源清延と交替する形で伊予守に遷る[注 1][2]。この人事は、寛弘7年(1010年)に尾張守・大江匡衡と丹波守・高階業遠が官職を交替した際に先例として挙げられている[13]。しかし、翌永祚2年(990年)には藤原道頼が伊予守に任ぜられており[14]、景舒は短期間で伊予守を去ったとみられる。
官歴
編集系譜
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b c d e f g h i j 『尊卑分脉』, p. 169.
- ^ a b c d 『大日本史料』2-1, p. 382.
- ^ 『大日本史料』1-23, p. 243.
- ^ 『大日本史料』2-5, p. 28.
- ^ a b 『尊卑分脉』, p. 302.
- ^ a b c 服部 2011, p. 339.
- ^ 『大日本史料』1-10, pp. 626–635.
- ^ 『大日本史料』1-21, p. 146.
- ^ a b 『国司補任』3, p. 41.
- ^ a b 『国司補任』4, p. 208.
- ^ 『大日本史料』1-21, pp. 146–147.
- ^ 久下 2008, p. 10.
- ^ 『大日本史料』2-6, p. 640.
- ^ 『大日本史料』2-2, p. 429.
- ^ 『村上天皇御記』
- ^ 『大日本史料』1-11, p. 324.
- ^ 『尊卑分脉』, p. 168.
- ^ 『親信卿記』
- ^ a b 『小右記』
参考文献
編集- 服部早苗「平安朝の五節舞姫―舞う女たち―」『埼玉学園大学紀要 人間学部篇』11号、埼玉学園大学、2011年。
- 久下裕利「道長・頼通時代の受領たち―近江守任用―」『学苑』817号、光葉会、2008年。
- 宮崎康充 編『国司補任』 3巻、続群書類従完成会、2000年。ISBN 978-4-7971-0643-5。
- 宮崎康充 編『国司補任』 4巻、続群書類従完成会、2000年。ISBN 978-4-7971-0644-2。
- 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第一編』 10巻、東京大学出版会、1968年。ISBN 978-4-13-090010-2。
- 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第一編』 21巻、東京大学出版会、1989年。ISBN 978-4-13-090021-8。
- 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第一編』 23巻、東京大学出版会、1989年。ISBN 978-4-13-090023-2。
- 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第二編』 1巻、東京大学出版会、1968年。ISBN 978-4-13-090051-5。
- 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第二編』 2巻、東京大学出版会、1968年。ISBN 978-4-13-090052-2。
- 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第二編』 5巻、東京大学出版会、1969年。ISBN 978-4-13-090055-3。
- 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第二編』 6巻、東京大学出版会、1969年。ISBN 978-4-13-090056-0。
- 『尊卑分脉』 2巻、吉川弘文館〈新訂増補国史大系〉、2007年。ISBN 978-4-64-204062-4。