藤原沢子

日本の平安時代の人物。仁明天皇の女御。従四位下、贈従三位。子に新子内親王(-897.12.21、三品)

藤原 沢子(ふじわら の たくし/さわこ、生年不詳 - 承和6年6月30日839年8月12日))は、身分の低い藤原総継藤原数子の娘で仁明天皇女御光孝天皇の生母で、皇族から源氏に臣籍した後再び皇族となった宇多天皇の祖母。子孫には醍醐天皇やその血族の宇多源氏の源倫子源氏物語の作者の紫式部が仕えた藤原彰子がいる。姉妹の乙春藤原長良室となり、基経および高子を産む。

藤原 沢子
第58代天皇母
皇太后 (追贈)元慶8年(884年)2月23日

死去 承和6年6月30日839年8月12日
陵所 中尾陵(京都市東山区今熊野宝蔵町)
沢子
氏族 藤原氏北家
父親 藤原総継
母親 藤原数子
配偶者 仁明天皇
子女 宗康親王
光孝天皇
人康親王
新子内親王
女御宣下 天長10年(833年
立后前位階 従四位下、贈従三位
テンプレートを表示

生涯

編集

仁明天皇即位前からので、 北家藤原氏の支流の従五位下紀伊守総継(贈太政大臣)の娘で低い身分の出身。

低い身分であったが、仁明天皇の寵愛が厚く、唯一無二の寵愛を受ける。『続日本後記』には、承和六年(839)六月三十日条には、「女御藤原朝臣沢子卒。(中略)寵愛之隆(さか)ンナルコト独リ後宮ニ冠タリ。俄(にはか)ニ病ミテ困篤(こんとく)ス。之(これ)ヲ小車ニ載セ禁中ヨリ出(い)ダス。纔(わづか)ニ里第ニ至リ便(すなは)チ絶ユ。天皇之ヲ聞キテ哀悼シタマフ。中ノ使ヲ遣ハシテ従三位ヲ贈ルナリ」と源氏物語桐壺更衣に似ているためモデルの1人とされる[1]

夫が即位すると天長10年(833年)に女御になった。天長5年(828年)に宗康親王、天長7年(830年)に時康親王(後の光孝天皇)、天長8年(831年)に人康親王を出産した。また新子内親王をもうけている。従四位下。承和6年(839年)4月、宮中でにわかに病となり、危篤となり車で里第に運ばれるも、そのまま6月30日に卒去。同年、従三位を追贈された。

元慶8年(884年)に所生の時康親王が光孝天皇として即位すると、同年に皇太后を追贈され、外祖父総継は贈太政大臣とされた。源氏物語光源氏が実子の冷泉院の即位によって、遂には六条院の院号を授けられたのと通ずるところがある(『源氏物語の謎』増淵勝一 著 - 国研ウェブ文庫)

御陵は、中尾陵(京都市東山区今熊野宝蔵町)。

参考文献

編集
  • 『日本女性人名辞典』日本図書センター
  • 安田政彦『平安時代皇親の研究』吉川弘文館、1998年

脚注

編集