藤原維幾

常陸介・讃岐介

藤原 維幾(ふじはらの これちか)は、平安時代中期の貴族・武将。

 
藤原 維幾
時代 平安時代(中期)
官位 従五位常陸介[注 1]
氏族 藤原南家乙麻呂流工藤氏
父母 父:藤原清夏
高望王の娘
為憲
テンプレートを表示

藤原南家乙麻呂流藤原清夏の子。官位は常陸介従五位

平将門の乱時の常陸介 編集

平将門の乱の時、常陸国の住人である藤原玄明が租税を納めず、乱暴を働き、官物を盗んだとして維幾と対立し、玄明に追捕令を出した。その後、玄明は妻子を連れて平将門の元へ逃げ、匿われた。そこで維幾は将門に玄明の受け渡しを要求したが将門はこれを拒否した。そうして天慶2年(939年)11月、維幾と将門は戦いとなり、維幾の兵は将門の兵より数では優っていたが、敗北し国府に逃げ帰った。そして勢いに乗った将門は国府を包囲し、これに勝機なしとみた維幾は降伏し、国府の印璽を差し出した。

維幾の敗北の意味 編集

敗北した維幾は国府の印璽を差し出したが、印璽とは朝廷の権限を象徴するものである。したがってこれは将門が国司から常陸を奪ったことと同義といえる。そしてここから将門の戦いが私闘から反乱へと変わっていった。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 天長3年(826年)に常陸国が親王任国とされてからは、「常陸介」が実質的な実務上の最高位であり、官位は養老律令の官位令が定める大国の官位相当の介の正六位下ではなく、従五位以上である。

出典 編集

外部リンク 編集