藤原 近成(ふじわら の ちかなり)は、平安時代前期の官人官位従八位上筑後掾

 
藤原近成
時代 平安時代前期
生誕 不詳
死没 不詳
官位 従八位上筑後掾
主君 陽成天皇
氏族 藤原氏
テンプレートを表示

経歴

編集

筑後掾を務めていた際に、筑後少目・建部真貞、正六位上・清原利蔭らと共に筑後守・都御酉の殺害を計画。元慶7年(883年)6月に前筑後掾・藤原武岡と大宅近直に数十人を率いて都御酉の館を襲わせ、これを射殺の上で財物を略奪させた[1]。しかし、大宰府による捜索を受けて8月に実行犯は捕縛されてしまう。同年10月に藤原良積が推問筑後国殺害使に任ぜられて九州に下向し[2]、さらに翌元慶8年(884年)6月に弾正少弼安倍肱主らが大宰府に派遣されて推問が行われた[3]刑部省での裁定の結果、仁和元年12月(886年1月)に近成は首謀者として死罪となるが、によって死一等を減じ、遠流となったという[4]。その後の消息は不明。

また、『尊卑分脈』などの各系図には近成の名がなく、詳しい系譜は不明である。

参考文献

編集

脚注

編集
  1. ^ 『日本三代実録』元慶7年7月19日条
  2. ^ 『日本三代実録』元慶7年10月9日条
  3. ^ 『日本三代実録』元慶8年6月20日条
  4. ^ 『日本三代実録』仁和元年12月23日条