藤田川 藤介(ふじたがわ とうすけ、1866年 - 没年不明)は、明治時代大相撲力士。富山県出身で最高位は東三段目十八枚目。引退後は世話人

人物 編集

吝嗇家であったとされ、角界隠語でケチなことを、彼の下の名前から「とうすけ」と言うようになった[1]

相撲は弱くて、しまいには稽古すれば腹が減る、一生懸命相撲を取っても怪我をしてはいけないと負けることに専念、場所が始まって3日もたてば休場していたという。本場所が年2場所の時代にあって連続32場所、16年も序二段だった。1908年明治41年)に42歳で引退し、世話人に転向した。

逸話 編集

  • 財布を持たず小銭だけを持ち、貯まると紙幣に交換していた。紙幣はきれいに伸ばして新品を持っている人がいれば交換してもらい、折り目の無い新札をならべて数え喜んでいたという。
  • 力士としての地位は低かったが、貯めた金を関取利子をつけて貸して稼いでいた。取立ては高利貸し以上に厳しく、どちらが関取かわからないほどだったという。
  • 巡業先では終了後に桟敷席を回って客の食べ残した弁当をかき集めるといった卑しい真似にまで及んでいたとされる。当時の食糧供給からすれば全力士が無制限に食事を行う余裕があるとは言い切れなかったという実情がこのような非常識極まる行動の背景にあった。
  • 長年にわたって貯めた金で東京日本橋に数軒の貸家をもつ大家となったが、娘夫婦に貸す際、実の娘からは家賃がとれないと、家を他人名義にして家賃を徴収した。このため本人の死後、実の娘であるのに家を相続することができなかった。
  • とられるものは一切駄目で本人の写真は一切残っていない。

脚注 編集

  1. ^ 藤助(とうすけ)とは”. コトバンク 精選版 日本国語大辞典. 2023年8月27日閲覧。

関連項目 編集