袁 泌(えん ひつ、510年 - 567年)は、南朝梁からにかけての人物。は文洋。本貫陳郡陽夏県

経歴 編集

南朝梁の司空袁昂の子として生まれた。南朝梁の員外散騎侍郎を初任とし、諸王の府佐を歴任した。太清2年(548年)、侯景の乱が起こると、袁泌は皇太子蕭綱の下で東宮領直となり、呉中におもむいて兵士を召募した。侯景建康を包囲すると、袁泌は集めた兵を率いて救援におもむいた。太清3年(549年)、建康が陥落すると、東陽に撤退した。侯景の兵の追撃を受け、会稽の東嶺から湓城に出て、鄱陽嗣王蕭範を頼った。蕭範が死去すると、袁泌は侯景に降った。

侯景の乱が平定されると、袁泌は王僧弁の推挙を受けて富春郡太守となり、丹陽尹を兼ねた。承聖4年(555年)、貞陽侯蕭淵明が帝を称すると、袁泌は侍中となり、北斉に対する使者をつとめた。永定元年(557年)、王琳郢州に拠って陳霸先に抵抗していた。袁泌は北斉より梁の永嘉王蕭荘を迎えて王琳のもとに送り、蕭荘を立てさせた。袁泌は侍中・丞相長史となった。天嘉2年(561年)、袁泌は王琳とともに柵口に到達したが、王琳の軍は南朝陳の軍に敗れた。袁泌は蕭荘を劉仲威に託して北斉に入国させ、自身は南朝陳に投降した。

寧遠始興王府法曹参軍に任じられ、諮議参軍に転じた。通直散騎常侍の位を受け、侍中を兼ね、豫州大中正をつとめた。北周に対する使者をつとめて、帰国すると散騎常侍の位を受け、御史中丞に任じられた。天康元年(566年)、廃帝が即位すると、袁泌は雲旗将軍・司徒左長史となった。光大元年(567年)、死去した。享年は58。贈諡を受けないよう遺言したが、南朝陳の朝廷に聞きとどけられず、金紫光禄大夫の位を追贈され、を質といった。

子女 編集

  • 袁蔓華(名は芳華とも)

伝記資料 編集

脚注 編集