袁遺

中国後漢末期の政治家・学者。後漢の揚州刺史。豫州汝南郡汝陽県の人。

袁 遺(えん い、生没年不詳)は、中国後漢末期の政治家・学者。字は伯業豫州汝南郡汝陽県(現在の河南省周口市商水県)の人。

袁遺
後漢
揚州刺史
出生 生年不詳
豫州汝南郡汝陽県
死去
豫州沛国
拼音 Yuán Yí
伯業
主君 袁紹
テンプレートを表示

生涯

編集

袁紹袁術らの従兄とされる[1]河間張超にその人徳と文学的才能を絶賛され、朱儁に推挙された(武帝紀の引く『張超集』)。

長安県令となり、後に山陽太守となった。190年、袁紹らが董卓を討つため挙兵した頃、張邈らと共に参加した。張邈・劉岱橋瑁鮑信曹操と共に酸棗の地に駐屯したが、酒宴をするのみで積極的に董卓と戦おうとしなかったため、曹操に叱責された。やがて兵糧が尽きて軍を解散させている(『後漢書』)。

後に袁紹によって揚州刺史に任命された。しかし、揚州の支配を巡って袁術と対立し戦って敗走、逃亡先で部下の裏切りに遭って殺された(武帝紀と袁術伝の引く『英雄記』)[2]

曹丕の『典論』によれば、曹操はその人間性を高く評価し「長大にして能く勤めて學ぶ者は、惟だ吾と袁伯業のみ」(大人になっても、よく勤めて学んでいる者は、ただ私(曹操)と袁伯業(袁遺)だけだ。)と讃えていたという。

母は何夔の従姑であったという(「何夔伝」)。

脚注

編集
  1. ^ 何夔伝では袁術の兄とある。矢野主税は、袁紹の父袁成や袁術の父袁逢の兄にあたる袁平の子としているが、根拠があるわけではない
  2. ^ 「袁術伝」本文によると、袁術に殺害された揚州刺史は陳温とされる。