襟裳丸(えりもまる)は太平洋戦争中に日本で建造された戦時標準型貨物船[5]。船主は日本郵船

襟裳丸
基本情報
船種 貨物船
クラス 2A型戦時標準船
船籍 大日本帝国の旗 大日本帝国
所有者 日本郵船
運用者 日本郵船
建造所 三菱重工業広島造船所
母港 東京港/東京都
姉妹船 2A型戦時標準船 127隻(1A型からの転換およびタンカー仕様の2AT型を含む)[1]
航行区域 遠洋
信号符字 JTAL[2]
IMO番号 53294(※船舶番号)[2]
建造期間 185日
経歴
起工 1944年11月17日[3]
進水 1945年4月23日[3]
竣工 1945年5月20日[3]
最後 1945年8月10日 船体放棄
要目
総トン数 6,891.06トン
純トン数 4,948トン
垂線間長 128m[4]
型幅 18.2m[2]
型深さ 11.1m[2]
ボイラー 円缶 2基
主機関 艦本式甲25型蒸気タービン 1基[5]
推進器 1軸
出力 2,000HP[2]
速力 10.0ノット[2]
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船歴

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「襟裳丸」は2A型戦時標準船の1隻として三菱重工業広島造船所で建造され[5]1944年昭和19年)11月17日に起工[3]1945年(昭和20年)4月23日に進水し[3]、同年5月20日に竣工した[3]

竣工後は船舶運営会使用船となるが[6]、軍の徴用は受けず一貫して民間船として活動。自衛用として連装機銃を3基装備した[6]

処女航海では、関門海峡で機雷の爆発により推進器軸が湾曲する被害を受けた[7]。修理後、「襟裳丸」は唐津・麗水間を2往復した[7]

8月、「襟裳丸」は羅津へ向かう[7]。同地で積み荷中の8月9日日ソ開戦となり、港内の船舶はソ連機の攻撃を受けた[7]。最初の空襲では右舷側に至近弾があり、船体に破孔が生じた[8]。2回目の空襲では左舷船尾に至近弾を受け、火災が発生[8]。火災は鎮火したが、浸水のため傾斜し始める[8]。3回目の空襲でも被害を受け、傾斜は増大した[8]。10日、軍当局より総員退船命令が出る[8]。同日、再び空襲を受けて4番船倉に被弾のほか、至近弾も多数受け、排水不能となり、総員退避した[9]。船体は放棄された[5]

人的被害は死者が船員1名、警戒隊3名、重傷者が船員3名、警戒隊9名であった[8]

終戦後、ソ連により接収されているが、以後の消息は不明[2]

脚注

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  1. ^ #岩重p.43
  2. ^ a b c d e f g なつかしい日本の汽船 襟裳丸”. 長澤文雄. 2023年10月7日閲覧。
  3. ^ a b c d e f 『商船建造の歩み』251ページ
  4. ^ 『商船建造の歩み』250ページ
  5. ^ a b c d 『日本郵船戦時船史 下』307ページ
  6. ^ a b 駒宮真七郎『続・船舶砲兵』12ページ
  7. ^ a b c d 『日本郵船戦時船史 下』309ページ
  8. ^ a b c d e f 駒宮真七郎『続・船舶砲兵』14ページ
  9. ^ 駒宮真七郎『続・船舶砲兵』14ページ。『日本郵船戦時船史 下』309ページ

参考文献

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  • 岩重多四郎『戦時輸送船ビジュアルガイド2―日の丸船隊ギャラリー』大日本絵画、2011年。 
  • 駒宮真七郎『続・船舶砲兵 救いなき戦時輸送船の悲録』出版協同社、1981年
  • 三菱造船株式会社(編)『商船建造の歩み 1887~1958』三菱造船、1959年
  • 『日本郵船戦時船史 太平洋戦争下の社船挽歌 下』日本郵船、1971年

外部リンク

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