西山浄土宗
西山浄土宗(せいざんじょうどしゅう)は、京都府長岡京市の光明寺(粟生光明寺)を総本山とする広義の浄土宗の一派。浄土宗の祖法然没後、高弟の証空が唱えた西山義は浄土宗西山派ともされ、その流れが現在では西山浄土宗と呼ばれている。
本尊
編集依拠の経典
編集総本山
編集西山浄土宗総本山
歴史
編集法然没後、親鸞の浄土真宗と、筑後国・肥後国を中心に念仏の教えを弘めた弁長の鎮西義(現在の浄土宗)、京都の浄土宗主流となった三鈷寺証空の西山義(現在の西山浄土宗)、証空に対抗して諸行本願義を説いた九品寺長西の九品寺義、流刑を機に東国で多念義を広めた長楽寺隆寛の長楽寺義の浄土四流が成立する。
西山義から西山浄土宗に
編集そもそも現在の西山浄土宗は、浄土宗の開祖法然上人の高弟である証空(證空とも、西山国師・西山上人)が、自らが唱える西山義の教えを広めたことに始まる。こうして証空によって唱えられた西山義はやがて浄土宗西山派として、知恩院を総本山とする浄土宗鎮西派に次ぐ浄土宗内での大きな派となっていく。現在の西山浄土宗の母体であった光明寺派はその浄土宗西山派の流れをくむ一派であり、証空の弟子である西谷(せいこく)流の浄音が、証空の教えの上に更に自らの考えをも交えて西谷流を唱えだし光明寺や禅林寺(永観堂)を中心に西山義の西谷流の教えを広めたのが直接の始まりである。
1870年(明治3年)に、浄土宗西山派は浄土宗鎮西派(現在の宗教法人浄土宗)と統一されたが、1876年(明治9年)9月25日に再び分裂する。この時に浄土宗西山派は西谷流・光明寺が西本山、西谷流・禅林寺が東本山、深草流・誓願寺が北本山、深草流・円福寺が南本山となり、四本山制となる。
1919年(大正8年)4月30日、浄土宗西山派がそれぞれの考えの違いから光明寺を総本山とする浄土宗西山光明寺派(現在の西山浄土宗)、禅林寺を総本山とする浄土宗西山禅林寺派、誓願寺を総本山とする浄土宗西山深草派の三つに分裂する。この三つを総称して西山三派という。
1941年(昭和16年)3月31日、西山三派が国策により再び浄土宗西山派として統合されるが、太平洋戦争終結後の1948年(昭和23年)に再び三つに分裂する。その際、浄土宗西山光明寺派は名称を西山浄土宗に改めた。
1948年(昭和23年)、西山浄土宗から曼陀羅寺を本山とする浄土宗西山曼陀羅寺派が分派するが、1961年(昭和36年)、再び西山浄土宗に合流した。
年表
編集- 明治時代以後
- 1876年(明治9年)9月25日 - 西山義を中心にして浄土宗西山派が結成された。この時に浄土宗西山派は西谷流・粟生光明寺が西本山、西谷流・禅林寺が東本山、深草流・誓願寺が北本山、深草流・円福寺が南本山となり、四本山制となる。
- 1919年(大正8年)4月30日 - 浄土宗西山派が粟生光明寺を総本山とする浄土宗西山光明寺派(後の西山浄土宗)、禅林寺を総本山とする浄土宗西山禅林寺派、誓願寺を総本山とする浄土宗西山深草派の三つに分裂する。この三つを総称して西山三派という。
- 1941年(昭和16年) - 日中戦争中の戦時統制によって西山三派が再び合流して浄土宗西山派となる。
- 1947年(昭和22年)2月8日 - 浄土宗西山派が粟生光明寺を総本山とする西山浄土宗(浄土宗西山光明寺派が改称)、禅林寺を総本山とする浄土宗西山禅林寺派、誓願寺を総本山とする浄土宗西山深草派の三つに再び分裂する。
- 1948年(昭和23年) - 西山浄土宗から曼陀羅寺を本山とする浄土宗西山曼陀羅寺派が分派する。
- 1951年(昭和26年)
- 1961年(昭和36年) - 浄土宗西山曼陀羅寺派は、元の西山浄土宗に合流。
- 1966年(昭和41年) - 深草浄土宗は、元の浄土宗西山深草派に合流。
関係学校
編集宗歌
編集- 生きて身を 蓮の上に 宿さずば 念仏申す 甲斐やなからん
- 西山浄土宗歌「念仏讃」は西山国師・証空作の和歌に古関裕而が曲を付けたもので、寺院の大きな行事で歌われる他、上記の関係学校でもよく歌われている。「念仏讃」として歌うときには最後の「甲斐やなからん」は異なる節で繰り返す。