西方城 (下野国)
沿革 編集
足尾山地の東端にある城山(標高221.3m)の山頂から東麓にかけて築かれ、南北に8つの郭を設けてそれぞれを土塁や堀切、土橋をもって区切っている[1]。
伝承では、永仁元年(1293年)に宇都宮泰宗の子・景泰によって築かれ、景泰はこの地の地名より西方氏を称したという[1]。
西方綱吉の時代に豊臣秀吉の小田原征伐があり、これに従わなかった綱吉は西方領を没収され、宇都宮国綱の家臣として都賀郡赤坂(現在の市貝町)に移封されることで家名を保った[2]。
西方領は結城秀康に与えられた[2]が、関ヶ原の戦い後に結城氏は越前国に移封され、その後藤田信吉に西方の地を与えられる(西方藩)[1]。信吉は西方城の南東側の標高150m付近に「二条城」と俗称される新城を築いたとされるが、後に改易された[1]。
脚注 編集
参考文献 編集
- 『日本歴史地名大系 9 栃木県の地名』(平凡社、1988年) ISBN 978-4-582-91028-5 P466.「西方城跡」